【昭和事件史】暴走族銃撃事件──悲しき愛のテーマ
イントロダクション
三十七年前の相模原では、暴走族の爆音は迷惑な日常だった。
しかし、一九八八年一月十七日未明、その日常は、国道十六号に響いた三発の銃声によって一変する。
集団走行中の少年たちに向けて、暴力団員が拳銃を発砲。三人が重軽傷を負った。
当時、中学生だった私は、この事件を「因果応報」と受け止めていた。だが今振り返ると、その四文字は、事件の異常さから目を背ける言葉でもあった。
このドキュメンタリーは、当時の報道や記録をたどりながら、あの日、国道十六号で起きたことを検証するものである。
序章 『ゴッドファーザー』愛のテーマ──それが日常だった
二〇二五年秋、東京都品川区大崎。中学時代の友人たちと酒を飲み、駅へ向かって歩いていた時のこと。
遠くから、けたたましいエンジン音が聞こえてきた。複数台のバイクが加速と減速を繰り返しながら走る、あの独特の音。かつては珍しくもなかったが、今では耳にすることは珍しい。
その音を耳にした友人が、笑いながら言った。
「都内でこの音を聞くとは。相模原かと思ったよ」
それを聞いて、品川に住む友人と都下に住む私は顔を見合わせて笑った。暴走族の爆音は、私たちにとって相模原そのものを思い出させる音だったのだ。
帰りの電車内、友人と別れ一人となる。その時、ある記憶が蘇った。
一九八八年一月、相模原で起きた暴走族銃撃事件──。あの事件から三十七年の歳月が流れていた。
当時、私は相模原市内の中学校に通う一年生の生徒だった。今では珍しい存在である暴走族だが、当時の相模原においては、決して遠い存在ではなかった。
授業中だろうが休み時間だろうが、学校の周りを爆音が行き交う。ある日、二台のバイクが、校舎を巡回するかのように何度も周回を繰り返していた。「また来たよ」と私がうんざりするほどに、暴走族の存在は日常だった。
また、彼らが鳴らすミュージックホーンは、決まって映画『ゴッドファーザー』の愛のテーマ。それを聞いた不良生徒たちは嬉しそうに手を振っていたが、私は、恐怖や憧れよりも先に妙な可笑しさが込み上げていた。
なぜその曲なのか。なぜそこまで分かりやすいのか。そう呆れていたのを覚えている。
もっとも、それは表面的な見方に過ぎない。実態はもっと深刻であった。
ある日、在校生が暴走族のステッカーを校内で売り捌いていることが問題になった。全校集会が開かれ、校長は強い口調で生徒たちに告げた。「絶対に関わるな」その言葉だけは、今も耳に残っている。
とはいえ、当時の私は、その言葉の本当の重さを理解していなかった。今、冷静に振り返れば、学校側は単なる不良行為としてではなく、その背後にある「組織」や「金の流れ」を警戒していたのだろう。あの時期の暴走族の存在は、若者の反抗の枠に収まっていなかったし、大人たちのアンダーグラウンドな世界とも地続きなのは有名な話だ。
それから数カ月後だろうか。
暴走族が国道十六号で銃撃された。
その事実を知ったのは、一九八八年三月、春のお彼岸のことだった。親族と横浜の墓所へ向かう車中、高校生だった従兄弟が、ぽつりと言った。
「一月にさ、相模原で暴走族がヤクザに撃たれたんだよ」
少年であった私は耳を疑った。銃撃。しかも相模原で。自分が毎日暮らしている、あの街で。
理由を尋ねると、従兄弟は短く返した。「因果応報だよ」と。
当時の私は、その四字熟語の意味を知らなかったが、帰宅して辞書を引き、妙に納得したのを覚えている。迷惑な暴走行為を繰り返した結果、恐ろしい相手を怒らせてしまったのだろう。そう考えた。
「因果応報」という気持ちは、当時の社会に広く漂っていた空気とも言える。 暴走族は迷惑な存在であり、報いを受けるのは当然だ。少なくとも少年だった私は、その空気に違和感も抱かなかった。
だが、本当にそれで良かったのだろうか。
一九八八年一月十七日未明。国道十六号の相模原市内において、集団走行をしていた少年たちが短銃で銃撃され、三人が重軽傷を負った。
銃撃の動機は「進路を妨害されてカッとなった」というもの。
しかし、本当にそれだけなのか。 なぜ、「カッとなった」だけで銃が使われたのか。なぜ少年たちは撃たれなければならなかったのか。 そしてあの時代、相模原の人々は暴走族をどのように見ていたのか。
大崎の夜風の中で聞いた爆音は、私を三十七年前の相模原へ引き戻した。かつては「因果応報」という一言で片付けてしまった出来事だが、当時、人々は何を思い、何に怯えたのか、あらためて考えてみたい。
第一章 国道十六号の凶弾
一九八八年一月十七日、午前一時過ぎ。
土曜の夜から日曜の未明へと移り変わる時間帯でも、相模原市内の国道十六号を行き交う車は少なくなかった。
この大幹線道路に、暴走族の爆音が鳴り響く。暴走族の集団が断続的に走り抜けていく光景は、沿道の住民にとって日常の一部だったが、騒音は苦痛を伴うものであった。
沿道の住民は、集団の騒音に眉をひそめつつも、同時に「いつか大事が起きるのではないか」という漠然とした不安を抱えていた。
十七日深夜、八王子ナンバーの白いトラックが国道十六号を横浜方面へ向かって走っていた。
運転席にいたのは、東京都八王子市の自動車販売業者、N谷英樹(当時二十五歳)。助手席には、短髪にサングラス姿の男ら二人が同乗していた。彼らは、横浜市瀬谷区の自動車修理工場へ向かう途中だったという。
やがて前方、夜の闇の中に暴走族の車列が現れた。オートバイと乗用車が入り混じった、秩序なき集団走行。
白いトラックと暴走族の間で何があったのか。N谷はのちに「前をさえぎられたので、カッとなって殺そうと思った」と供述している。
「殺そうと思った」
明確な殺意である。そしてN谷には、暴走族をめぐる許し難い過去があった。
一九七九年、N谷は暴走族に金を要求したが、逆に激しい暴行を受けた。この遺恨が追尾と発砲にどれほど影響したのかは定かではない。しかし「殺そうと思った」という背景に「遺恨」があったのは事実である。
N谷は執拗に暴走族を追尾した。
N谷のトラックは車列の後方に張り付き、時には横へ並び、車体を寄せた。そして窓を開け、夜の国道に怒声を響かせる。
「バカヤロー!!」
トラックは離れない。暴走族側もそれに応じるようにスピードを上げ、互いに危険な車線争いを繰り返していた。
そのような中で、助手席の男は発砲の機会をうかがっていた。運転席のN谷も「(助手席の男が)撃ちやすいように車を運転した」ことをのちに供述している。
午前一時三十分ごろ、相模原市大沼付近。
最初の銃声が響いた。
助手席の男が拳銃を構え、集団の最後尾を走っていた乗用車へ向けて引き金を引いたのだ。
最後尾を走っていたのは、町田市に住む十九歳の土木作業員。弾丸は逸れ、命中しなかった。
喧騒の中、多くの少年たちはそれが「銃声」であることすら気づかず、集団はそのまま走り続けた。
しかし、白いトラックは執念深く集団を追った。
約五分後。
現場から約二・五キロ離れた谷口陸橋付近。二度目の発砲。
今度の標的は、オートバイの脇に立っていた十七歳の大工見習いの少年だった。放たれた弾丸は少年の右頬を貫通。少年はその場に崩れ落ち、重傷を負った。
暴走族同士の抗争では、鉄パイプや新聞紙に包まれた日本刀が使われることもあった。ところが今回は拳銃だった。
少年たちの多くは、目の前の現実をすぐには呑み込めなかった。
さらに数分後、三度目の発砲。
今度はオートバイに二人乗りしていた少年たちが狙われた。
背後から放たれた弾丸は、十五歳の少年の左腕を貫き、そのまま前方にいた十七歳の少年の背中に突き刺さる。
わずか十分足らずの間に、三発。
国道十六号は、一瞬にして凄惨な銃撃事件の現場と化していた。
もし弾道が数センチずれていれば、あるいは頭部や胸部を直撃していれば、死者が出ていてもおかしくなかった。
発砲を終えた白いトラックは、速度を落とすことなく、横浜方面へ走り去った。
翌日の捜査で、運転していたN谷は逮捕されたが、助手席で実際に引き金を引いた男について、N谷は頑なに口を閉ざした。
「名前は言えない」
しかし撃った男の正体は、呆気ないほど簡単に割り出されていく。

左上の囲みは、一発目の発砲があった相模原市大沼の国道16号(上り車線)付近
真ん中の囲みは、二発目の発砲があった相模原市上鶴間の国道16号「谷口陸橋」付近
右下の囲みは「谷口陸橋」から、さらに数百メートル離れた三発目の発砲現場付近
第二章 交錯する住民の感情
国道十六号に響いた銃声は、すぐには警察へ届かなかった。午前一時三十分過ぎから始まった一連の発砲で、三人の少年が重軽傷を負った。しかし、現場から一一〇番通報が入ることはなかった。
負傷した少年たちは仲間の車に乗せられ、町田市内の病院へ向かった。事件が公になったのは、その後だった。
病院側が負傷状況を不審に思い、一一〇番通報したことで、警察は初めて銃撃事件の発生を把握する。この時点で、発砲から約一時間が経過していた。
その間、国道十六号には車が走り続けていたし、深夜の道路を駆け抜けた白いトラックも、とうに現場を離れていた。
夜明けとともに、国道十六号沿いの景色は一変する。相模原南署を中心とする捜査員たちが現場へ集結し、道路脇の畑や空き地で証拠品の捜索を始めた。数十人の警察官が横一列に並び、地面へ視線を落としながらゆっくりと周囲を見回す。

そこには暴走族の騒音はなく、聞こえるのは警察官同士の指示と、市内を吹き抜ける『丹沢おろし』の風音だけだった。
やがて第一現場付近から空薬きょう一個が発見された。また第三現場で銃撃された少年の体内には弾丸が残されていた。その鑑定も急ぎ進められる。
結果、捜査本部は、少年らは三十八口径の短銃で銃撃されたものと判断した。
拳銃。
その言葉が報道を通じて伝わると、住民たちの受け止め方が変わる。
暴走族同士の抗争ではない。
鉄パイプでも木刀でもない。
本物の拳銃が使われた事件だった。沿道住民の間に広がったのは、不快感よりも先に恐怖だった。もし弾道が少しずれていたらどうなっていたのか。もし流れ弾が住宅に飛び込んでいたら。そう考えた地域住民は少なくなかった。
もっとも、事件によって暴走族への同情が広がったわけではない。現場周辺では、長年にわたり暴走族の騒音が問題となっていた。週末の深夜になると、爆音が住宅街へも流れ込み、住民の眠りを妨げた。
【筆者注】一九八八年当時、私は相模原市内を走る県道から100mほど住宅地に入った家に住んでいたが、それでも暴走族の爆音は眠りを妨げるに十分であった。
現場近くで営業していたリサイクル店の店主は、のちにこう語っている。「そのうちに大事になるのではと思っていた。ピストルと聞いても驚かない」住民たちにとって、それは決して突然現れた暴力ではなかった。長年積み重なった混乱の延長線上にある出来事として受け止められていた。
一方で、銃撃を否定する声もあった。暴走を止める必要はあるが、拳銃で撃つことは別問題だ。そう考える住民もいた。ある主婦は、暴走行為を繰り返す少年たちについて、「親や社会の責任もあるのではないか」と複雑な思いを新聞記者に語ったという。
国道十六号近くに住む住民たちは、その二つの感情の間で揺れていた。
現場近くのファミリーレストラン『CASA 相模大野店』では、店内の従業員が暴走族車列を目撃していた。しかし、誰一人として発砲には気づかなかった。
幹線道路を絶えず行き交う車の走行音と、改造マフラーの爆音。その中で放たれた銃声は、周囲の騒音に埋もれてしまった。
『CASA 相模大野店』のマネージャーは取材に対して、銃撃を受けた暴走族グループについて「地味な印象だった」と振り返っている。
いつもレストラン前を通過する暴走族は、Vサインを見せたりして自己顕示するが、銃撃された集団は、そうしたパフォーマンスはなかった。だからこそ、拳銃発砲という結末との落差は大きかった。
そして事件は、早々に進展する。
被害少年たちの証言と目撃情報から、「八王子ナンバーの白いトラック」が浮上した。捜査員たちは車両の追跡を開始し、八王子市内の中古車販売業者へたどり着いた。そこから貸し出されていたトラックの使用者として浮上したのが、N谷英樹だった。
事件発生から二十四時間も経たない一月十七日夜、神奈川県警はN谷を殺人未遂容疑で逮捕した。異例ともいえる速さだった。しかし、捜査はそこで終わらない。問題は、助手席にいた男である。
短髪にサングラス姿。引き金を引いたとみられる人物。N谷は逮捕後も、その男の名前を明かそうとしなかった。警察は暴力団関係者の関与を疑い始める。
捜査は相模原南署だけではなく、県警本部の捜査一課や暴力団捜査を担当する四課を加えた体制へと拡大していく。
畑で薬きょうを探す警察官たち。そして暴力団を背後に持つ拳銃犯の影。公権力と裏社会。二つの影が国道十六号の上で交差し始めた。

第三章 因果応報だったのか
合同捜査本部はN谷の交友関係を洗い直し、暴力団関係者との接点や過去の付き合いを追った。
そこで浮かび上がったのが、一人の男だった。T原勝英、四十五歳。暴力団幹部。捜査員たちは、その行方を追った。
そして事件発生から約十三時間半後の一月十七日午後三時ごろ、八王子市北野町のパチンコ店で、その姿を見つける。拳銃による連続銃撃事件の実行犯として追われていた男は、パチンコ店の中にいた。
台の前に悠然と座り、玉を弾いていたのである。ほんの半日前、少年三人に向けて拳銃の引き金を引いた男が、である。
頬を撃ち抜かれた十七歳の少年が病院で治療を受け、十五歳の少年が左腕の痛みに耐えているその時、当の本人は遊技場で玉を打っていた。
しかも彼は、逃げ急ぐ様子はなかったし、身を隠す気配もなかった。罪悪感をうかがわせるようなそぶりもなかった。
その無頓着さは、開き直りだったのか。あるいは、暴力があまりにも日常に溶け込んでいたのか。堅気の私には分からない。
逮捕後、駐車場に停められていたT原所有の外車のトランクから、買い物用の紙袋が見つかった。見た目は、ごく普通の紙袋だったが、中に入っていたのは日用品ではない。三十八口径の短銃二丁と、二十数発の実包だった。
拳銃は回転式で、銃身には「SMITH & WESSON」の刻印があった。国道十六号で三人の少年を撃ち抜いた道具が、紙袋の中に無造作に入れられていた。
捜査員の追及に対し、T原はあっさりと認めた。拳銃は自分のものだ。二丁のうち一丁を使った。撃ったのも自分だ。否認も、言い逃れもなかった。
そして、所持した目的は「護身用」。
T原の所属する暴力団は『一和会』系であった。一九八八年一月当時、山口組と一和会は対立抗争状態にあった。だから襲撃に備えて、拳銃を持ち歩くことは裏社会では理由にはなる。
またT原は、拳銃をジャンパーの内ポケットに入れて持ち歩いていたという。抗争相手が襲ってきたら取り出す。その感覚が、市民社会から見れば異常である。
そしてT原が、自らを護るために持ち歩いていた短銃を、進路を妨げられたことに憤り、抗争相手ではない暴走族に向けたことは、市民社会に生きる人間には理解できなかった。

国道十六号で起きた銃撃事件は、迅速な捜査により、その輪郭が浮かび上がってきた。
白いトラックに乗っていた三人の男たちは、二十一日の夜までに全員逮捕された。
捜査の進展に住民たちは安堵した。それは犯人が捕まったという事実ではなく、拳銃を持った男が、もう街を走り回っていないという事実にである。
少年たちは確かに迷惑な存在だった。住民の多くはそう感じていた。だからといって、拳銃で撃たれてよい理由にはならない。
一方で、少年たち自身もまた暴力と無縁ではなかった。「暴走族だから撃たれてもしょうがないと言われればそれまでだが、本当に怖かった」のちにそう語った少年の言葉は、この事件の複雑さを物語っている。
被害者と加害者。善と悪。そうした単純な図式では割り切れないものが、この事件にはあった。
そして私が中学一年生の三月、従兄弟から聞かされた「因果応報だよ」という言葉は、長く記憶に残った。
だが、三十七年を経て振り返ると、あの日、国道十六号で起きた出来事は、単純に「因果応報」の四文字だけで片付けられるものではなかった。
暴走族の爆音に眉をひそめていた住民も、銃を持ち歩く暴力団員も、そしてその狭間で暮らしていた私たちもまた、あの時代の一部だった。
だからこそ、この事件を記録しておきたい。
