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あの頃、息子とキャッチボールをしていた父の話

― 上手くさせようとしなかった父の、いまの正直な気持ち ―


はじめに

野球は、
努力しなくてもそこにあるものだと思っていた。

父も野球をやっており、元高校球児。
当時は仕事をしながら週末には高校野球の
臨時コーチなどもしていた。
草野球のチームに所属しており、
よく連れて行ってもらった。
チームメイトのおじさんたちに遊んでもらった
記憶も薄っすらとある。

技術的なことは、よくわからなかったが、
ものすごい上手かった記憶。
私が投げたボールを、
父はどこに投げても取った。
正面でも、逆シングルでも、体勢を崩してでも、どんな取り方でも取った。
そして必ず、僕のグローブをかまえた
取りやすいところに返してくれた。

たまに変化球も見せてくれた。
理屈なんて聞いていない。
ただ、「すごいな」「かっこいいな」と思っていた。

祖父は、住み込みでとある施設の
野球グラウンドを管理する仕事をしていた。
芝生の手入れをし、ラインを引き、誰もいない朝のグラウンドに立つ人だった。
だから僕にとって「おじいちゃんの家」は、
家というよりも芝生のグラウンドだった。
子どもの頃は、友達に自慢したこともあった。

祖父の家に泊まりに行くと、
夜はいつもナイター中継がついていた。
祖父は阪神ファン、祖母は巨人ファン。
正直、アニメを見たかったな…
という記憶もある。
それでも、
その時間が当たり前のように流れていた。

2、3歳の頃のビデオが残っている。
祖父がボールを転がし、
僕がそれをバットで打つ。
少し前に転がっただけのボールでも、
祖父は必ずこう言った。

「今のはホームランだ」

どんな当たりでも、なんでもホームランだった。
それが、たまらなく嬉しかった。

祖父は草野球の連盟審判もやっていたようで、主審の道具をつけさせてくれたこともある。
マスクをかぶり、プロテクターをつけるだけで、自分も野球の世界に入ったような気がしていた。

おじいちゃんが住み込みで管理人をしていた場所には、宿泊施設もあった。
クラブハウスにはロッカールーム、大きなお風呂。野球と一緒に、景色や匂いまで、体に染みついている。

この頃の僕は、
野球が「努力しないと届かないもの」だなんて、
正直、一度も考えたことがなかった。

なんとなく野球は楽しい。
グラウンドに行けば野球があって、
バットを振れば褒められて、
いつかは試合に出るものだと思っていた。

大人になったら、プロ野球選手になれる。
ホームラン王にもなれる。
そんなことを、本気で信じていた。

まさか自分が、
「最後の夏、スタンドで泣く側」になるなんて、
この時は、夢にも思っていなかった。


第1章
野球が「当たり前」だった頃

小学生の夏休みの旅行は、
父がコーチをしていた高校の夏合宿について行くのが定番だった。

父がコーチをしている間、
母と弟と僕は海で遊ぶ。
合宿の期間中、たった1日だけ、
父が海で一緒に遊んでくれたことがある。

今思えば、それが特別な時間だった。

そんな環境だったから、
いつの間にか野球が好きになっていた。

学校から帰ると、
いつもボールで遊んでいた記憶がある。

小学校3年生の2学期、
友達に誘われてチームに入り、
本格的に野球を始めた。

父にグローブとバットを買ってもらった。
あのときの嬉しさは、今でも
はっきり覚えている。

入ったチームは、
地域ではほとんど負けない強いチームだった。

初めての出場は代走。
ひたすら走った。

正直、
どうやって野球の技術を身につけていったのかは覚えていない。

ただ、
5年生のとき、サードを守っていて
速い打球を体に当てて止めたことがあった。

あのときコーチに褒められた。
それは、なぜかよく覚えている。

父に褒められた記憶は、あまりない。
でも、野球のことを聞けば、
父は何でも教えてくれた。

プロ野球観戦にも、度々連れて行ってもらった。

気づけば、
僕はヤクルトスワローズの大ファンになっていた。
ファンクラブにも入り毎月届くグッズが
楽しみだった。

特に好きだった選手は池山選手。
「ブンブン丸」という愛称の通り、
当時の人気は本当にすごかった。

サインボール、ポスター、文房具、
しまいには石鹸まで。
身の回りは池山選手だらけだった。

ケガをして二軍施設に練習に来ていると
聞いたときは、自転車で2時間かけて
見に行ったこともある。

バッティングセンターにも、
よく連れて行ってもらった。

池山選手のように、
バットを豪快に振り回していると、
父は後ろから言う。

「センター前だけ狙えばいい」

打つたびに、
あーだこーだ言われて、
正直イライラしていたのも覚えている。

でもそのおかげか、
6年生の頃には
ヒットを打った記憶しかなかった。

誰が相手でも、
ヒットを打てる感覚しかなかった。

1番・サード。
それが自分の定位置だった。

ヒットを打って、盗塁して。
野球は、本当に楽しかった。

中学に上がるとき、
シニアに進むかどうかで正直迷った。

先輩から「厳しい」と聞いていたし、
父からも
「ちょっと厳しいんじゃないか」と話をされた。

結局、
中学の部活で野球を続けることにした。

通っていた中学の部活には、
少年野球時代に敵として戦っていた
選手がほとんどいた。

先輩も後輩も、顔なじみばかり。
上下関係もあまりなく、
顧問の先生も特に何も言わない。

練習も、そこまでしていなかった。

ただただ、
野球をやっていた、という感覚。

野球が「遊び」でしかなかった。

サッカー部の隣で、
サッカーをして遊んでいたくらいだ(笑)。

試合は、
地域でもほとんど勝った記憶がない。

それでも、
父がいつも試合を見に来てくれていたことは
覚えている。

道具の手入れもせず、
「早く帰りたいな」「ゲームしたいな」
そんなことばかり考えていた。

その頃は、
バスフィッシングに夢中で、
野球よりも釣りが優先だった。

今思えば、
本当に何をやっていたんだと思う。

でも当時は、
野球にまったく身が入っていなかった。

それでも、
なんとなく高校野球、
甲子園には憧れていた。


第2章
高校野球は、甘くなかった

高校は、公立のいわゆる古豪だった。
入学する数年前には県大会でベスト4まで進み、当時はそれなりに名前の知られた学校だった。

入学してすぐ、圧倒された。
先輩たちの体の大きさ、放つ雰囲気、
無言の威圧感、部訓。
これまで触れてきた野球とは明らかに
違っていた。

野球部の入部希望者は45人。
説明会で監督からは、はっきりと言われた。

「遊び感覚なら、やめた方がいい」

その言葉を聞いて、
最終的に入部したのは40人だった。
その半分以上が、中学シニア(硬式)経験者。
部活でも都大会に出ていた、
ホームランを何本も打ってきた、
いわゆる“上手い選手”ばかりだった。

中学では、正直、半分遊びのような感覚で
野球をやっていた。
そんな自分が、ここでやっていけるのか。
無理なんじゃないか、と思った。

それでも、
一度「やる」と決めたことを途中で投げ出すのは、昔から好きじゃなかった。

髪の毛を坊主に刈り上げ、気合を入れた。
というより、そうせざるを得なかった。
先輩たちからの無言の圧力も、
正直あったと思う(笑)。

最初は、グラウンドにも入れなかった。
学校の周りをひたすらランニング。
全員の足並みが揃うまで、終わらない。
いつ終わるのかわからないまま、走り続けた。

ようやくグラウンドに入れても、
硬式球は初体験だった。
シンプルに、痛い。
バットの芯を外せば、手が痺れる。
最初は、何をやっても上手くいかなかった。

ただ、グローブだけは違った。
父から譲り受けた硬式用のグローブだったので、
柔らかく、すぐに手に馴染んだ。

セカンドを希望し肩は強くなかったが、
守備には多少自信があった。

一年生、二年生の夏は、スタンドで応援だった。
上級生は、神様みたいな存在だった。
言葉遣い、態度、立ち振る舞い。
厳しい指導も多く、正座させられることも
よくあった(笑)。

「我慢だ」「耐えるしかない」
そう思いながら、練習に励んでいた。

ただ、その裏で、
一人、また一人と、同級生が
来なくなっていった。
気づけば、退部していく仲間を何人も
見送っていた。

二年生の夏が終わり、
自分たちの代になった時点で、
残っていたのは15人だった。

二年生、秋の大会。
メンバーには入っていた。
でも、焦りもあって、
なかなか試合で結果を出せなかった。

後輩はどんどん上手くなっていく。
その姿を見るたび、焦りは強くなったと思う。

それでも、朝は誰よりも早くグラウンドに来て、
バッティング練習に時間を使った。
年間360日は、ユニフォームを着ていたと思う。

シニア出身の同級生の動きを、必死で見た。
アドバイスをもらい、守備は格段に良くなった。
今でも、守備には自信がある。

そして、最後の夏。

メンバーから外れた。

メンバー発表の日、
外れていることがわかって、
めちゃくちゃ泣いた。
みんなが帰ったあとも、
一人で部室に残って泣いていた。

家に帰り、親に「ダメだった」と伝え、
自分の部屋に閉じこもって、また泣いた。
今でも思い出すと、泣けてくる。

親は、何も言わなかった。
ただ、いつも通りご飯の準備をしてくれていた。

大会前日。
いつも練習試合や練習を見に来てくれていた
父にこう言われたのを覚えている。

「お前がメンバーにいないなら、見に行かないよ」

チーム練習も、朝練も、
自分なりには、しっかりやったつもりだった。

でも、今考えると、甘かったと思う。
ただ“やっていただけ”だったのかもしれない。

もっと素振りをしていれば。
もっと野球に向き合っていれば。
もっと野球の勉強をしていれば。
もっと、誰よりも練習していれば。

後悔は、いくらでも出てくる。

高校野球を引退したあと、
父の草野球に参加したり、
友達と草野球チームを作ったりして、
今も野球を続けている。

そこには、何のプレッシャーもない。
ただ、楽しい野球がある。

仲間は、高校の野球部の同級生。
きつくて、辛い3年間を、
一緒に過ごした仲間たちだ。

レギュラーになれなかった理由を、ずっと考えていた

高校野球が終わってからも、
「どうして自分はレギュラーになれなかったのか」
この問いは、何年も頭の中に残り続けていた。

下手だったからなのか。
才能がなかったからなのか。
運が悪かっただけなのか。

どれも、少しずつ当てはまっている気がして、
でも、どれも決定的な答えにはならなかった。

思い返せば、練習はしていた。
朝も来ていたし、ユニフォームも
ほとんど毎日着ていた。
辞めずに、最後までグラウンドに立っていた。

それなのに、
「本気だったか」と聞かれると、
胸を張って「はい」と言えるかは、
正直わからない。

野球が好きだったのは、本当だ。
でも、野球と“向き合っていたか”と言われると、
どこかで逃げていた気もする。

試合に出られない理由を、
「仕方ない」「相手がすごい」「運が悪い」
そんな言葉で、少しずつ自分を納得させていた。

努力はしていた。
でも、覚悟までは、
足りていなかったのかもしれない。

父に野球のことを聞けば、何でも教えてくれた。
でも、自分から深く聞きにいったかというと、
そうでもない。
言われたことにイラついた記憶はあるのに、
真正面から受け止めた記憶は、
あまり残っていない。

今になって思う。

あの頃の自分は、
「努力すれば報われる」と信じていたというより、
「いつか報われるだろう」と思っていただけだった。

結果が出ない理由を、
外に探すことは簡単だった。

でも、
本当に足りなかったのは、
技術でも、才能でもなく、
自分自身と向き合う覚悟だったのかもしれない。

それでも、
あの3年間が無駄だったとは、思っていない。

スタンドで流した涙も、
部室で一人泣いた時間も、
今も一緒に野球を続けている仲間も、
すべてが、今の自分につながっている。

レギュラーにはなれなかった。
甲子園にも行けなかった。

でも、
「最後まで逃げなかった」という事実だけは、
今も自分の中に、静かに残っている。

そしてこの経験が、
この先、
“父親になった自分”を、
思いがけない形で縛り、支え、考えさせることになる。

そのことを、
この時の自分は、まだ知らなかった。


第3章
父になって、
もう一度はじまった野球

それから数年が経ち、結婚し子どもが生まれた。

息子が小学校に入った頃、
通わせている学校に少年野球のチームが
あることを知った。
公園で遊びながら、なんとなく野球らしきことはやっていたので、「どうかな」と思い体験に連れて行った。

そのとき、息子が「楽しかった」と笑顔を見せてくれたのを、今でもよく覚えている。

ただ、その後すぐにコロナ禍になり、
なかなかチームには入れなかった。
3年生の終わり頃になると、
土日は家でゲームばかり。

正直、少し焦りもあった。

「ゲームをやりたいなら、何かスポーツも始めな」

半ば無理やりだったと思う。
そう言って、改めて野球チームの体験に
連れて行った。

4年生になり、息子の口から「チームに入る」と聞いたときは、本当に嬉しかった。

最初は、ボールが怖い、朝は眠い、疲れたと、
よく泣いていた。
練習にもあまり身が入らず、早く帰ってゲームをしたいと思っていたのだと思う。

それでも、
少しずつ野球が好きになっていったようで、
たまに「公園で野球やろう」「教えて」と言ってくることもあった。

公園では、どっちが遠くまでボールを
投げられるか、よくやった。
どうしたら遠くに投げられるか、
少しだけアドバイスはしたが、
本当に遊びの延長だった。
とにかく、楽しんでほしかった。

野球以外にも、サッカーや鉄棒、
鬼ごっこもよくやった。

100円ショップでカラーバットと
ゴムボールを買い、
少しでも飛ぶようにビニールテープを巻いて、
少し重くして、思いっきり振り回していた。

息子が喜ぶように、バットの軌道に
合わせたところにボールをトスしてあげる。
これが大事なことだと思っていた。

打つと「もう一回、もう一回」と言って、
嬉しそうにしていた。

誰でもやりそうな、本当に普通のことだ。

幼少期から4年生の終わりまでは、
とにかく「野球って楽しい」と思ってほしくて、
何かを強制したり、ミスをして怒ったりすることは、
絶対にしなかった。

たまにプロ野球を観に連れて行くこともあった。
ただ、息子はまだ野球にのめり込んでいたわけではないので、
試合の途中で寝てしまうことがほとんどだった。

そんな息子も、今ではヤクルトスワローズ、
山田哲人選手の大ファンだ。

野球は、最初がとにかく肝心だと思っている。

だから、少しだけアドバイスしたことがあるとすれば、
投げ方、打ち方、そして右打ちか左打ちか、という点だった。

うちの家系はみんな小柄だ。
息子も、そこまで大きくはならないだろうと考え、
足を活かせるように左打ちを教えた。

「バッターボックスに入るときは、左で打つんだよ」

投げるのは右。
野球というゲームの特性上、高いレベルになると、右投げのほうが守れるポジションは多い。

ルールは、野球のゲームソフトを買い、一緒にやりながら覚えさせた。
基本的なルールは、あれで身についたと思っている。

投げ方については、変な癖がつかないようにだけ気をつけた。
肘は高く、投げる手と反対の腰元に、一気に振り下ろす。
気になることがあれば、家で少し教えて、調整する程度だった。

バッティングについては、5年生になるまでは細かい技術は一切伝えなかった。
「ボールをよく見て、思いっきり振れ」
それだけ。

バットは立てず、肩に乗せるイメージで寝かせ、横に振る。
最初はまったくイメージできていなかったようで、
遊びに行くたびに変な振り方になっていた。

そんなときは、
「前に、なんて言ったっけ?」
とヒントだけ出して、思い出させるようにしていた。

それだけだ。

それだけだったが、
のちに「フォームがきれいだね」「見た目がいい」と、
他のコーチ陣からよく褒められるようになった。

野球をずっとやってきた自分からすると、
投げ方や打ち方がきれいなだけで、自然と目がいく。

これは、他の野球人もきっと同じだと思う。

実際、プロ野球選手で、変な投げ方をする人はいない。
変則投手はいても、基本はみんな同じフォームをしている。


ここまで書いてきたことは、
特別な成功談でも、正解でもありません。

ただ、
「野球が好きだった一人の少年」が
「レギュラーになれなかったまま大人になり」
「父親として、もう一度野球と向き合うことになった」
その途中経過です。

この先に書くのは、
うまくいった話でも、美談でもありません。

息子と向き合う中で、
何度も間違え、
言い過ぎて、
押し付けて、
あとから一人で反省したこと。

そして、
それでも息子に伝えたかったことです。

野球の技術ではありません。
フォームでも、練習方法でもありません。

・努力の仕方
・悔しさとの向き合い方
・続けるという選択
・親は「結果」ではなく「過程」を見る存在だということ

これは、
「野球をやらせている親」だけの話ではなく、
「子どもと何かに向き合っているすべての親」の話だと思っています。

もし、
レギュラーになれなかった過去がある人、
子どもへの関わり方に迷ったことがある人、
一度でも「これでよかったのかな」と立ち止まったことがある人なら。

この先は、
きっと他人事では読めません。

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