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【アダマール行列は情報の魔法陣──ノイズに強い世界の作り方】アダマール行列は“情報の魔法陣”──ノイズに強い世界の作り方


+1と−1。たった2つの数字が織りなすその正方形のグリッドは、一見すると単純な数遊びのパズルのように見えるかもしれません。しかし、この数学的構造体――「アダマール行列」――こそが、過酷な宇宙空間から届く火星の画像をノイズの海から救い出し、数億人が同時に接続するモバイル通信網の混信を防ぎ、そして今、巨大な人工知能(LLM)や量子コンピュータという最先端技術の核心において、計算量の爆発とエラーを静かに制御しているのです。

19世紀の数学者が純粋な好奇心から発見したこの「情報の魔法陣」は、なぜこれほどまでに強力な「直交性」という秩序を物理世界にもたらすことができるのでしょうか。なぜ、単なる符号の羅列が、エントロピー増大という宇宙の法則に抗う盾となり得るのでしょうか。本レポートでは、NASAのマリナー計画から最新の生成AI量子化技術、そして2025年現在も数学者たちを悩ませ続ける「668次の未解決問題」に至るまで、現代文明の基盤を支える知られざる数学的英雄、アダマール行列の全貌と未来を解き明かします。

第1章 序論:秩序と頽落の境界線


1.1 情報という名の物理量とエントロピーの戦い


我々が生きるこの宇宙には、逃れられない一つの法則が存在する。熱力学第二法則、すなわちエントロピー増大の法則である。形あるものは崩れ、整理された情報はノイズに埋もれ、秩序は混沌(カオス)へと向かう。これは通信工学や情報理論の世界においても同様であり、ケーブルを流れる電気信号、空間を飛び交う電波、そして量子ビットの繊細な重ね合わせ状態に至るまで、あらゆる「情報」は常に環境からのノイズという「頽落」の圧力に晒されている。
この不可逆的な流れに抗い、情報を正確に伝え、保存し、そして処理するために、人類は数学という武器を手にした。その武器庫の中でも、一際シンプルでありながら強力な魔力を秘めた道具が存在する。それが「アダマール行列(Hadamard Matrix)」である。

1.2 +1と−1が織りなす「直交」の魔術


アダマール行列の構成要素は、驚くほど単純である。その要素は $+1$ と $-1$ の2種類しか存在しない。しかし、この単純な数値が正方行列というグリッドの中に、ある特定の規則に従って配置されたとき、そこには「直交性(Orthogonality)」という強力な数学的秩序が立ち現れる。
直交性とは、幾何学的には「垂直」であることを意味する。互いに直交するベクトル同士は、互いの成分に干渉しない。この性質を行列の各行(あるいは各列)が持っているということは、アダマール行列が生成する信号やコードは、どれだけ重ね合わせても、数学的な操作によって完全に分離・復元が可能であることを示唆している。これは、泥水の中に落とした宝石を、泥の粒子一つ一つと区別して取り出すような作業を可能にする。

1.3 本報告書の構成と目的


本報告書は、19世紀の純粋数学的探求から生まれたこの「魔法陣」が、いかにして20世紀の宇宙開発や通信革命を支え、そして21世紀の量子コンピュータや巨大言語モデル(LLM)といった最先端技術の核心部分に組み込まれていったのかを、技術的なメカニズムと共に詳らかにするものである。
NASAのマリナー計画がいかにして火星の画像をノイズの海から救い出したのか。数億人が同時に通話する携帯電話網がいかにして混信を防いでいるのか。そして、最新のAIがいかにして計算コストの爆発を抑え込んでいるのか。これら一見無関係に見える事象の背後には、常にアダマール行列の「直交性」と「拡散(Scattering)」の原理が働いている。本稿では、事実と理論に基づき、この数学的構造がいかにして現実世界の頽落を救済しているのかを包括的に論じる。

第2章 数学的起源:最大行列式問題と完全なる調和


2.1 シルベスターの舗装:早すぎた発見


歴史の皮肉と言うべきか、アダマール行列の最初の発見者はジャック・アダマールではない。1867年、イギリスの数学者ジェームズ・ジョセフ・シルベスター(James Joseph Sylvester)は、「Anallagmatic Pavement(不変舗装)」という奇妙な名前の論文を発表した1。
シルベスターは、$+1$ と $-1$ を市松模様のように配置した正方配列が持つ、組合せ論的な美しさに着目していた。彼は、ある規則に従って構成されたこの配列において、任意の2つの行を比較すると、要素が一致する箇所と不一致の箇所がちょうど同数になることを発見した。これは現代的な用語で言えば、行ベクトル同士の内積がゼロになる「直交性」の発見に他ならない。しかし、当時の数学界においてこの発見はあくまで純粋数学的なパズルの一種と見なされ、その工学的応用が花開くまでには1世紀の時間を要することになる4。

2.2 アダマールの最大行列式問題


1893年、フランスの数学者ジャック・アダマール(Jacques Hadamard)は、解析学における重要な問題に取り組んでいた。それは「単位円板内の複素数(絶対値が1以下)を要素とする $n$ 次正方行列 $A$ において、その行列式の絶対値 $|\det(A)|$ の最大値はいくらか」という問題である。
行列式とは、幾何学的にはその行列を構成する列ベクトル(または行ベクトル)が張る $n$ 次元平行六面体の「体積」を表す。ベクトルの長さが制限されている場合、体積を最大にするにはどうすればよいか。直感的に考えれば、ベクトル同士が互いに直角(直交)に交わっているとき、体積は最大になるはずである。長方形の面積が、平行四辺形の面積よりも大きいのと同じ理屈である。
アダマールは厳密な証明の末、以下の不等式(アダマールの不等式)を導き出した。
$$|\det(A)| \le n^{n/2}$$
そして、この等号が成立する(=体積が最大になる)ための必要十分条件として、以下の2点を特定した。

行列のすべての要素の絶対値が $1$ であること(すなわち、要素は $+1$ または $-1$)。
行列のすべての行(および列)が互いに直交していること。

この条件を満たす行列こそが、後に彼の名を冠して呼ばれることになる「アダマール行列」である5。

2.3 定義と基本性質の深層


改めて、アダマール行列 $H_n$ の数学的定義を厳密に記述する。$H_n$ は次数 $n$ の正方行列であり、以下の条件を満たす。
$$H_n \in {+1, -1}^{n \times n}$$
$$H_n H_n^T = n I_n$$
ここで $H_n^T$ は転置行列、$I_n$ は単位行列である。この式 $H_n H_n^T = n I_n$ こそが、アダマール行列の「魔法」の源泉である。
対角成分が $n$ になることは、各行ベクトルの大きさ(ノルムの二乗)が $n$ であることを意味し、非対角成分が $0$ になることは、異なる行ベクトル同士が直交していることを意味する1。
さらに、アダマール行列には「正規化(Normalization)」という概念がある。行や列の符号を反転させたり、順番を入れ替えたりしても、アダマール行列としての性質(直交性)は失われない。この操作を利用して、第1行と第1列のすべての要素を $+1$ に揃えたものを正規化アダマール行列と呼ぶ。
正規化されたアダマール行列において、$n \ge 4$ ならば、任意の行(第1行を除く)には $+1$ と $-1$ がちょうど $n/2$ 個ずつ含まれる。この「バランス性」は、後の通信応用においてDCオフセット(直流成分)を除去する上で極めて重要な性質となる。

2.4 シルベスターの再帰的構成法


シルベスターが発見し、アダマール行列生成の基礎となっているのが再帰的構成法(Sylvester's Construction)である。これはクロネッカー積(Kronecker Product)を用いて記述される4。
最も単純な1次のアダマール行列 $H_1$ は $$ である。
ここから、次数を2倍にするごとに、以下のように行列を拡張していく。
$$H_{2n} = \begin{pmatrix} H_n & H_n \ H_n & -H_n \end{pmatrix}$$
具体的には:
$$H_2 = \begin{pmatrix} 1 & 1 \ 1 & -1 \end{pmatrix}$$
$$H_4 = \begin{pmatrix} 1 & 1 & 1 & 1 \ 1 & -1 & 1 & -1 \ 1 & 1 & -1 & -1 \ 1 & -1 & -1 & 1 \end{pmatrix}$$
このフラクタル的な自己相似構造は、単に美しいだけでなく、計算アルゴリズムの観点から極めて重要である。この構造を利用することで、行列ベクトル積を高速に計算する「高速ウォルシュ・アダマール変換(FWHT)」が可能となり、計算量は通常の $O(n^2)$ から $O(n \log n)$ へと劇的に削減される。これがなければ、現代のリアルタイム通信や画像処理への応用は不可能であっただろう8。

第3章 宇宙からの帰還:マリナー9号と誤り訂正の勝利


3.1 遥かなる火星とノイズの壁


1971年、NASAの無人探査機マリナー9号は、人類史上初めて他の惑星(火星)の周回軌道に到達しようとしていた。そのミッションの核心は、火星表面の鮮明な画像を地球へ送信することであった。しかし、そこには物理的な障壁が立ちはだかっていた。火星と地球の距離は約1億キロメートル以上離れており、送信される電波は微弱極まりない。宇宙空間を飛び交う放射線、太陽風、そして地球上の受信アンテナが発する熱雑音など、通信路は「ノイズ」に満ちていた10。
以前のマリナー6号・7号までのミッションでは、比較的単純な符号化方式が用いられていたが、画像の解像度向上に伴い、要求されるビット誤り率(BER)は $10^{-5}$(10万ビットに1回の誤り)以下という厳しいものであった。生のデータをそのまま送れば、ノイズによってビットが反転し、画像は砂嵐のようなノイズに埋もれてしまう。ここで、情報の「冗長化」と「直交化」による救済が必要となった10。

3.2 リード・マラー符号とアダマール行列の融合


この課題を解決するためにNASAが採用したのが、アダマール行列の性質を応用した誤り訂正符号、具体的には「リード・マラー符号(Reed-Muller Codes)」の一種である一次リード・マラー符号 $R(1,)$ をベースとした $$ 符号である(文献によっては単に「アダマール符号」や「双直交符号」とも呼ばれる)10。
この符号化のメカニズムは以下の通りである。

情報のブロック化: 送信したい画像データを6ビットごとのブロックに分割する。6ビットの情報は $2^6 = 64$ 通りのパターン(0から63の数値)を持つ。
符号語の割り当て: この64通りのパターンそれぞれに対して、長さ32ビットの特定のビット列(符号語)を割り当てる。
アダマール行列の利用: ここで使われる符号語は、32次のシルベスター型アダマール行列 $H_{32}$ の行ベクトル(32本)と、その各ビットを反転させたベクトル(32本)の合計64本である。

通常の2進数表現であれば、6ビットの情報は6ビットの長さで送られる。しかし、マリナー9号はそれを32ビット、つまり約5倍の長さに引き延ばして送信した。一見すると非効率に思えるこの「冗長性」こそが、ノイズへの耐性を生む鍵である。

3.3 符号の驚異的な訂正能力


この符号のパラメータ $$ は以下の意味を持つ。

符号長 $n=32$: 送信されるビット数。
情報点数 $k=6$: 実質的な情報量。
最小距離 $d=16$: 任意の異なる2つの符号語を比較したとき、異なるビットの数(ハミング距離)が最低でも16個ある。

最小距離が16であるということは、もし通信中に7ビットまでの誤り(反転)が発生しても、理論的には正しい符号語を特定できることを意味する($(16-1)/2 = 7.5$)。
アダマール行列の行ベクトル同士は直交しているため、要素($+1/-1$)ベースで考えれば、一致する箇所と不一致の箇所が同数(16箇所ずつ)である。バイナリ($0/1$)の世界では、これはハミング距離が $n/2 = 16$ であることに対応する10。

3.4 「グリーン・マシン」による高速復号


地球上の受信局(ディープスペースネットワーク)では、微弱な信号を受信する。ノイズまみれの32ビット(実際にはアナログ値)を受け取ったとき、受信機は「送られた可能性のある64個の符号語」すべてと受信信号との**相関(Correlation)**をとる。
ここで、アダマール行列の性質が再び輝く。総当たりで64回相関計算をするのではなく、「高速アダマール変換(FHT)」と呼ばれるアルゴリズムを用いることで、計算量を劇的に削減できるのである。当時、この高速処理装置は「グリーン・マシン(Green Machine)」と呼ばれた12。
FHTを通すと、64個の出力のうち、送信された正しい符号語に対応する出力だけが(ノイズがあっても)突出して大きな値を示す。他の63個の出力は、直交性によりゼロに近い値となる。この「最大値検出(Maximum Likelihood Decoding)」により、NASAは火星の砂嵐の中から、驚くほど鮮明な「インカ・シティ(Inca City)」やオリンポス山の画像を復元することに成功したのである。これは、数学的抽象概念が物理的ノイズを征服した記念碑的瞬間であった10。

第4章 通信の革命:CDMAと「カクテルパーティー」の解法


4.1 電波という共有地の悲劇


20世紀末、携帯電話(セルラー通信)の爆発的な普及に伴い、通信業界は深刻な問題に直面していた。「周波数帯域」という限られた資源を、いかに多くのユーザーで共有するかという問題である。
第1世代のアナログ方式や、第2世代(2G)のTDMA(時分割)/FDMA(周波数分割)方式では、ユーザーごとに時間や周波数を切り分けて割り当てていた。しかし、ユーザー数が増えれば「切れ端」は細かくなり、すぐに限界が訪れる。
この壁を打ち破ったのが、アダマール行列を核とした第3世代移動通信システム(3G)の基盤技術、「CDMA(Code Division Multiple Access:符号分割多元接続)」である16。

4.2 ウォルシュ・コードによる直交拡散


CDMAの原理は、しばしば「カクテルパーティー」に例えられる。多くの人が一つの部屋(同じ周波数帯域)で同時に喋っている状況で、特定の相手の声だけを聞き取るにはどうすればよいか。CDMAの答えは、「ペアごとに異なる言語(符号)を使う」ことである。
この「異なる言語」として採用されたのが、アダマール行列の各行から生成される「ウォルシュ・コード(Walsh Codes)」である16。
例えば、64次のアダマール行列 $H_{64}$ からは、互いに直交する64種類のコードが生成される。基地局は、ユーザーAへのデータにはコード $W_A$ を、ユーザーBへのデータにはコード $W_B$ を掛け合わせて(拡散変調して)送信する。
$$S_{\text{total}} = (\text{Data}_A \times W_A) + (\text{Data}_B \times W_B) + \dots$$
空間上ではすべての信号が混ざり合うが、ユーザーAの端末が受信信号に対して自分のコード $W_A$ を掛け合わせて積分(逆拡散)すると、奇跡が起こる。
$$S_{\text{received}} \times W_A = (\text{Data}_A \times W_A \cdot W_A) + (\text{Data}_B \times W_B \cdot W_A) + \dots$$
ここで、アダマール行列の直交性により $W_B \cdot W_A = 0$ となり、他者の信号成分は完全に消滅する。一方、自己相関 $W_A \cdot W_A = 64$ となり、自分の信号だけが強く浮かび上がる。
この「拡散利得(Processing Gain)」により、CDMAはノイズや他者干渉に極めて強く、秘匿性の高い通信を実現した。クアルコム社が主導したIS-95(cdmaOne)やそれに続く3G規格は、まさにアダマール行列の直交性を社会インフラへと実装したものであった18。

4.3 4G/5Gへの変遷と直交性の継承


2010年代以降、通信規格はCDMAからLTE(4G)、そして5Gへと移行し、多元接続方式もOFDM(直交周波数分割多重)が主流となった。
なぜCDMAは主役の座を譲ったのか。最大の理由は「マルチパス(Multipath)」の影響である。都市部では電波がビルに反射し、遅れて届く反射波が干渉を引き起こす。アダマール行列による符号の直交性は、タイミングが完全に同期しているときのみ保証されるものであり、遅延波に対してはその直交性が崩れやすい20。
一方、OFDMは「周波数」の直交性を利用し、ガードインターバル(Cyclic Prefix)を設けることでマルチパスに強い耐性を持つ。しかし、アダマール行列が通信から消えたわけではない。OFDMシステムの中でも、ピーク対平均電力比(PAPR)の低減や、特定の制御信号(ACK/NACK信号など)の符号化において、ウォルシュ・アダマール系列やその派生形は依然として不可欠な要素として組み込まれている。形を変えながらも、「直交性による信号分離」という思想は現代通信の根底に流れ続けている20。

第5章 光の魔術:分光計測とフェルゲットの利得


5.1 「一つずつ」から「まとめて」へ


通信の世界だけでなく、物質の性質を光で探る「分光計測」の分野でも、アダマール行列は静かな革命を引き起こしていた。
従来の分光器(分散型)は、プリズムや回折格子で光を虹色に分け、スリットを通して「赤」「緑」「青」と波長ごとに順番に強度を測定していた。これを「スキャン方式」と呼ぶ。しかし、この方法には欠点がある。ある瞬間において、測定している波長以外の光(エネルギー)はすべて捨ててしまっているのである。特に信号が微弱な赤外線分光などでは、検出器に入ってくる光量が少なすぎてノイズに埋もれてしまう問題があった23。

5.2 フェルゲットの利得(マルチプレックス利得)


ここで登場するのが「アダマール変換分光法」である。この手法では、単一の波長だけを通すスリットの代わりに、アダマール行列のパターン(例えば $+1$ を透過、$-1$ を遮断、あるいは鏡で反射させるなど)に基づいた「マルチスリット(コード化マスク)」を使用する。
これにより、複数の波長の光を「混ぜて」同時に検出器に導く。例えば $N$ 個の波長帯を測定する場合、$N$ 回の測定それぞれで、約半分の波長帯の光を同時に受光する。
測定値 $y$ は、元のスペクトル $x$ とアダマール行列 $H$ の積となる。
$$y = H x$$
ここから元のスペクトル $x$ を求めるには、逆行列を掛ければよい($x = H^{-1} y$)。
驚くべきは、この「混ぜて測る」方式の方が、一つずつ測るよりもS/N比(信号対雑音比)が良くなるという事実である。これを フェルゲットの利得(Fellgett's Advantage) またはマルチプレックス利得と呼ぶ23。
理論的には、検出器のノイズが支配的な場合、S/N比はスキャン方式に比べて約 $\frac{\sqrt{N}}{2}$ 倍向上する。波長分割数 $N$ が大きいほど、その恩恵は甚大となる。

5.3 シングルピクセルカメラ:一点で世界を見る


この原理を2次元の画像に応用したのが「シングルピクセルカメラ(単一画素撮像)」である。
通常のデジタルカメラは数百万画素のセンサー(CCD/CMOS)を持つが、赤外線やテラヘルツ波など、特殊な波長帯では高画素のセンサーを作るのが極めて困難かつ高価である。
シングルピクセルカメラは、たった1つの受光素子(フォトダイオード)しか持たない。その代わり、レンズの前にDMD(Digital Micromirror Device)などの空間光変調器を置き、風景に対して高速にアダマールパターンのマスクを切り替えながら光の総量を計測する26。

アダマールパターン $P_1$ を表示 $\rightarrow$ 光量 $I_1$ を計測
アダマールパターン $P_2$ を表示 $\rightarrow$ 光量 $I_2$ を計測
...

これを繰り返して得られたデータ列に逆アダマール変換を施すと、あたかも数百万画素のカメラで撮ったかのような画像が数学的に再構成される。この技術は、霧の中での透視撮影や、医療用顕微鏡、さらには資源探査衛星など、特殊な環境下でのイメージングに不可欠な技術となりつつある。テキサス・インスツルメンツ社のDLP技術などは、このアダマール分光の原理を応用した製品を実用化している28。

第6章 量子の世界へ:重ね合わせとグローバーの探索


6.1 量子ビットとアダマールゲート


21世紀、人類は量子力学の奇妙な性質を計算に応用する「量子コンピュータ」の実現に向けて走り出した。この最先端の分野において、アダマール行列は物理的な「ゲート」として回路図の中に鎮座している。それが「アダマールゲート($H$ゲート)」である30。
古典コンピュータのビットは「0」か「1」のいずれかの状態しか取れない。しかし、量子ビット(qubit)は両方の状態を同時に取る「重ね合わせ状態」を実現できる。
この重ね合わせを作り出す操作こそが、アダマールゲートである。
1量子ビットに対するアダマールゲートは、以下の行列で表される。
$$H = \frac{1}{\sqrt{2}} \begin{pmatrix} 1 & 1 \ 1 & -1 \end{pmatrix}$$
初期状態 $|0\rangle = \begin{pmatrix} 1 \ 0 \end{pmatrix}$ にこのゲートを適用すると:
$$H|0\rangle = \frac{1}{\sqrt{2}} (|0\rangle + |1\rangle) \equiv |+\rangle$$
この状態 $|+\rangle$ は、観測すると50%の確率で「0」、50%の確率で「1」になる。つまり、確定していた情報を、可能性の雲へと「拡散」させるのである。$n$ 個の量子ビットすべてにアダマールゲートを適用すると、$2^n$ 通りのすべての状態が均等に重ね合わされた状態が一瞬にして生成される。これが量子並列計算の出発点となる32。

6.2 グローバーのアルゴリズムと振幅増幅


アダマール行列の役割は、単に重ね合わせを作るだけではない。量子探索アルゴリズムとして有名な「グローバーのアルゴリズム」において、アダマール行列は探索の成功確率を高めるための重要な部品として機能する。
グローバーのアルゴリズムは、未整理のデータベース($N$ 個の要素)から特定のデータを探し出す際、古典的な手法では平均 $N/2$ 回の確認が必要なところを、約 $\sqrt{N}$ 回で済ませることができる。
このアルゴリズムの中核にあるのが「拡散演算子(Diffusion Operator)」である。この演算子は以下のように定義される34。
$$D = H^{\otimes n} (2|0\rangle\langle 0| - I) H^{\otimes n}$$
ここで $H^{\otimes n}$ は $n$ 量子ビットに対するアダマール変換である。この演算子の役割は「平均値周りの反転(Inversion about the mean)」と呼ばれる。
直感的には、アダマール変換によって情報の確率振幅を「混ぜ合わせ」、正解のデータの振幅だけを増幅(干渉によって強め合う)させ、それ以外の不正解データの振幅を相殺して消してしまうプロセスである。
ここでも、マリナー9号やCDMAで見られた「拡散と逆拡散による信号の分離」という原理が、量子力学的な振幅というレベルで再現されている。アダマール行列は、量子干渉という物理現象を制御するための指揮者の杖なのである36。

第7章 人工知能の軽量化:LLMを支える「回転」技術


7.1 巨大化するAIと「外れ値」の壁


2020年代、ChatGPTに代表される巨大言語モデル(LLM)の登場は、AIの能力を飛躍的に向上させた。しかし、その代償としてモデルのサイズは肥大化し、数千億パラメータを持つモデルを動かすには、巨大なデータセンターと膨大な電力が必要となった。
このモデルをスマートフォンやノートPCなどのエッジデバイスで動かすために、「量子化(Quantization)」という技術が注目されている。これは、パラメータを表現するビット数を、従来の16ビット(FP16)から4ビットや3ビットに削減し、メモリ使用量と計算量を減らす技術である38。
しかし、ここに「外れ値(Outliers)」という問題が立ちはだかる。LLMの内部、特に活性化関数(Activation)の出力には、稀に極端に大きな値をとる特徴量(チャネル)が存在する。これら少数の外れ値に合わせて量子化のレンジを広げると、他の大多数の小さな値の情報が失われてしまう。逆に、小さな値に合わせると、外れ値がクリッピングされて大きな誤差(ノイズ)となり、AIの性能(知能)が崩壊する40。

7.2 ランダム・アダマール変換(RHT)による「エネルギーの平準化」


このジレンマを解決するために導入されたのが、またしてもアダマール行列である。最新の量子化手法(QuIP#、QuaRotなど)では、行列の重みや活性化値に対して、ランダム化されたアダマール行列による「回転」を加える処理が行われている9。
この処理の数理的な意味は「インコヒーレンス処理(Incoherence Processing)」である。アダマール行列を掛けることは、高次元空間での座標回転に相当する。
ある特定の座標軸(特徴量)に突出していたエネルギー(外れ値)は、回転によってすべての座標軸に対して「薄く広く」分散される。これを「民主化」と呼ぶ研究者もいる。
$$X_{\text{rotated}} = H \cdot X$$
回転後のデータ $X_{\text{rotated}}$ は、突出したピークを持たず、ガウス分布に近い滑らかな分布を持つようになる。この状態であれば、低ビット(4bitなど)で量子化しても情報は均等に保存され、致命的な誤差が生じにくい。
復号時には逆行列 $H^{-1}$(アダマール行列の場合は $H^T$ と定数倍)を掛ければ、元の情報を正確に復元できる。

7.3 なぜランダム直交行列ではなくアダマールなのか?


理論上は、任意のランダムな直交行列でも同様の「平準化」効果は得られる。しかし、AIの現場でアダマール行列が選ばれる決定的な理由は「計算速度」である。
一般的な密行列の積は $O(n^2)$ の計算コストがかかるが、アダマール行列は高速ウォルシュ・アダマール変換(FWHT)を用いることで $O(n \log n)$ で計算できる。数千億パラメータのモデルにおいて、この速度差は実用化の可否を分ける決定的要因となる9。
「情報は一点に集中させるよりも、全体に分散させた方が、圧縮やノイズ(量子化誤差)に強い」。このホログラフィックな原理は、150年前の数学から現代の生成AIへと脈々と受け継がれている。

第8章 未解決の領域:アダマール予想と668次の謎


8.1 アダマール予想:100年の難問


これほどまでに工学的応用が進み、社会インフラを支えているアダマール行列であるが、純粋数学の視点からは、未だに解明されていない巨大な謎が残されている。それが「アダマール予想(Hadamard Conjecture)」である。
アダマール予想:
「自然数 $n$ が 1, 2, または 4 の倍数であるならば、必ず $n$ 次のアダマール行列が存在する」
$n$ 次アダマール行列が存在するためには、$n=1, 2$ または $n$ が4の倍数であることが必要条件であることは証明されている。しかし、それが「十分条件」であるかどうか、つまり「4の倍数なら必ず作れるのか」は、1893年の提唱以来、誰にも証明できていない33。

8.2 最小の未解決次数


数学者たちはコンピュータを駆使し、様々な構成法(シルベスター法、ペイリー法、ウィリアムソン法、イトウ法など)を組み合わせて、一つずつ「存在」を証明してきた。
2005年、Hadi KharaghaniとBehruz Tayfeh-Rezaieによって、長年の懸案であった次数 428 のアダマール行列が構成された。これにより、未解決の最小次数は更新された5。
そして2025年現在、アダマール行列の存在が確認されていない最小の次数は 668 である($n=4k$ の形において)。
$668 = 4 \times 167$。167は素数である。この「668次の魔法陣」が存在するかどうかは、現代の組合せ数学における最大の未解決問題の一つ(聖杯)となっている。もし存在しないことが証明されれば予想は崩れ去るが、多くの数学者は「存在するが、まだ見つかっていないだけだ」と信じている4。
この668次の行列が見つかるか、あるいは存在しないことが証明されたとき、それはまた新たな符号理論や暗号技術への扉を開くことになるかもしれない。

結論:ホログラフィックな盾としての数学


本調査を通じて浮き彫りになったのは、アダマール行列が単なる「+1と-1の表」ではなく、情報を操作し、保護するための普遍的な「レンズ」であるという事実である。

分離の道具として: マリナー9号やCDMAにおいて、直交性を利用して「信号」と「ノイズ(あるいは他者)」を厳密に切り分けた。
収集の道具として: 分光計測やシングルピクセルカメラにおいて、微弱な信号を重ね合わせて測定し、S/N比を劇的に向上させた。
拡散の道具として: 量子コンピュータやLLM量子化において、情報を特定のビットやパラメータに集中させず、系全体に「拡散(Delocalize)」させることで、計算の並列化やエラー耐性を実現した。

これら全ての応用に共通するのは、「情報は局所に留めるよりも、全体に分散させて保持した方が、現実世界の不完全性(ノイズ、干渉、量子化誤差、エントロピー)に対して強靭である」という思想である。これはホログラムの原理(一部が欠けても全体像が復元できる)に通底する。
19世紀にシルベスターが舗装の模様として発見し、アダマールが行列式の限界として定義したこの数学的構造は、21世紀の現在もなお、デジタル社会という巨大な建造物を支える「見えない基礎」として機能し続けている。668次の謎が示すように、その探求はまだ終わっていない。人類がより多くの情報を、より速く、より正確に扱おうとする限り、この「情報の魔法陣」の魔力が失われることはないだろう。

補遺:主要データ・比較表


表1:通信・信号処理における直交変換の比較





表2:アダマール行列の応用技術スペック一覧





表3:アダマール行列の存在状況(2025年現在)





引用文献

Hadamard Matrices and Weaving, https://www2.cs.arizona.edu/patterns/weaving/webdocs/wa_hadmtx.pdf
Hadamard Matrix -- from Wolfram MathWorld, https://mathworld.wolfram.com/HadamardMatrix.html
Hadamard Matrices - Governor's School for the Sciences and Engineering, https://gsse.utk.edu/wp-content/uploads/sites/87/2020/07/Hadamard-Matrices.pdf
Hadamard matrix | Peter Cameron's Blog, https://cameroncounts.wordpress.com/tag/hadamard-matrix/
Hadamard matrix - Wikipedia, https://en.wikipedia.org/wiki/Hadamard_matrix
Hadamard's maximal determinant problem - Wikipedia,

Hadamard's Maximum Determinant Problem -- from Wolfram MathWorld, https://mathworld.wolfram.com/HadamardsMaximumDeterminantProblem.html
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