ベトナムの「Thịt kho」を巡る食文化の変遷:伝統、外来、そして現代の融合
ベトナムの食卓に欠かせない「Thịt kho」という料理は、単なる豚肉の煮込みにとどまらず、その多様な形態と名称の背後に、ベトナムの歴史、社会、そして人々の生活様式の深い変遷が隠されています。本稿では、「Thịt kho = Thịt kho tàu ではない」という認識を主眼に、伝統的な「kho」の意義から、外来文化の影響、そして現代の「Thịt kho tàu」の普及に至るまでの道のりを考察します。
1. 伝統的な「kho」の真髄:高温多湿な環境における保存性を最重視した知恵の料理
ベトナム語の「kho」は、「煮詰める」「(少量の水分で)煮込む」ことを意味する調理法であり、その核心は水分を極限まで飛ばして食材を濃縮させ、腐敗を防ぐ「保存性」を最優先することにあります。冷蔵設備がなかった時代、高温多湿なベトナムの気候において、貴重な肉や魚を無駄にせず、安全に長期保存するための、究極の知恵として発展しました。
徹底的な水分除去と凝縮: 食材を少量の液体(魚醬、砂糖、塩など)と共に煮詰めることで、微生物の繁殖を抑制し、長期保存を可能にしました。肉や魚が「硬く煮しめられる」のは、この保存性追求の必然的な結果でした。
「無駄を出さない」ための切実な知恵: 食料が極めて貴重だった当時、高価で傷みやすい肉や魚を「残れば捨てる」ことは許されませんでした。「kho」は、その貴重な食材を無駄にせず、数日間安全に食べ続けられるようにするための、切実な手段でした。
燃料の効率的な利用と味の凝縮: 一度に多めに調理し、それを複数日にわたって食べることで、燃料消費を抑えました。煮詰めることで、旨味が凝縮され、ご飯が進む濃厚な味わいとなります。
Thịt khoを作る際にQuả trám(チャイニーズオリーブ)を用いる地域もあり、これは中国南方(広東省や広西チワン族自治区)の「烏欖燜豬肉」のような、烏欖を用いた煮込み料理の調理技術が伝播・融合した結果と考えられます。
2. Khoにおける西洋の要素について
ベトナムのフランス植民地時代は、食文化にも大きな影響を与えました。肉の煮込み料理であるRagu、Bò xốt vang、Bò khoは、この影響を色濃く受けたフランス料理由来のものです。
フランス料理「Ragoût」の受容と調理法の変遷: これらの料理の原型はフランス料理のRagoûtにあり、初期にはRaguとしてベトナムにもたらされました。伝統的な「kho」が少量の水分で煮詰めるのに対し、この料理はたっぷりの水分の中で長時間煮込み、肉を柔らかくする調理法です。特に当時の牛肉は筋が多く、そのままでは食べづらいものであったため、長時間じっくり煮込むことで、その硬い肉を柔らかくする調理技術が極めて重要でした。
「kho」という名称の定着と意味の拡張: 牛肉を煮込む料理としては、本来「じっくり煮込む」を意味するHầmやNinhといった言葉がより適切です。しかし、これらの調理名が当時まだ一般的に普及していなかった可能性があり、フランス料理由来の牛肉の煮込みも、既存の「煮込む」という意味を持つ「kho」という言葉で表現され、その意味合いが拡張されたと考えられます。これにより、「kho」は従来の「煮詰める保存食」という意味合いに加え、「肉などをじっくり煮込む料理」という、より広い意味を持つようになりました。
Bò xốt vangの登場: Raguの中でも特に「vin rouge」(赤ワイン)を使うものが「Bò xốt vang」と呼ばれるようになりました。
Bò khoやBò xốt vangが持つ「tây」の要素:
ここで特筆すべきは、ベトナムの伝統的な食文化において、牛肉を「kho」する固有の調理法が存在しなかったという点です。豚肉には伝統的な「kho」の調理法が存在するため、後から中華系の影響を受けたものが「Thịt kho tàu」と区別されました。しかし、牛肉のカテゴリーにおいては、元々「Bò kho ta」と呼べるような伝統的な料理がなかったため、フランス料理由来の牛肉の煮込みが導入された際、特に「Tây(西洋)の」と修飾する必要がなく、「Bò kho」という名称が直接的に定着しました。それでもなお、その調理法や背景には、強い「Tây」の要素が見て取れます。
使用する食材と複合的な文化影響: 牛肉の選択自体が西洋由来の嗜好であり、八角、シナモン、クローブなどのスパイスの使用は、Tâyの調理法が、ベトナムに移住してきた中華系の人々を通じて取り入れられる過程で融合した側面を示唆しています。本来であれば「Bò kho tàu」と呼ばれてもいいはずですが、そうならなかったのはこの料理への西洋の影響がとても強かったことが伺えます。
提供方法と食べ方: Bò khoやBò xốt vangは、しばしばバゲット(Bánh mì)と共に提供されます。これはフランス植民地時代にベトナムに定着したパン文化と深く結びついており、まさに「Tây」の食習慣と融合した食べ方と言えます。
「高級料理」としての位置づけ: 高価な牛肉やワインの使用、そして肉を柔らかくするまでの長時間の煮込みに必要な燃料コストから、Ragu、Bò xốt vang、Bò khoは当時のベトナムでは一般家庭の日常食ではなく、富裕層や特別な祝宴で供される「高級料理」として位置づけられていました。現在、Raguという名称はほとんど見かけませんが、Bò xốt vangとBò khoは地域差はあれど一般的です。
3. Thịt kho tàuの台頭:豊かさとインフラ整備が変えた現代の食卓
ドイモイ政策後の経済発展は、ベトナム社会と人々の食生活に劇的な変化をもたらし、Thịt kho tàuが現在の主流となる大きな要因となりました。
「柔らかくて美味しい」への嗜好の変化:
経済発展により食料が安定供給されるようになると、人々は「硬くても保存が利く」という機能性から、「柔らかくて美味しい」という嗜好性へと価値観を転換させました。Thịt kho tàuの、肉を徹底的に柔らかく煮込む調理法は、この新しい嗜好に完全に合致しました。
電力インフラの改善と冷蔵庫の普及がもたらした生活習慣の変化:
Thịt kho tàuのような長時間の煮込みは、多くの燃料を消費します。また、調理したものが余った場合に安全に保存するためには冷蔵設備が不可欠です。
2000年代初頭のベトナムでは、電力供給が不安定で停電が頻繁に発生し、冷蔵庫もまだ一般家庭に広く普及しておらず、たとえ持っていても十分に活用できない状況でした。このため、料理のたびに市場でその日使う分だけを購入するという伝統的な習慣が広く見られました。
しかし、2000年代半ば頃から電力インフラの整備が急速に進み、電力供給の安定性が向上しました。JETROやACCESS ONLiNEの資料等によれば、冷蔵庫の全国での普及率は2010年代以降に急速に伸び、2018年には約72%に達しました。これは当時の人口(約9,550万人)を基に単純計算すると約2,674万人になります。1家庭4人と仮定すると約670万世帯の人々が冷蔵庫なしで生活していたことを意味し、特に農村部や山間部で冷蔵庫を所有していない家庭がまだ多く存在していたことを示唆しています。一方で、ベトナム統計総局によると2022年のホーチミン市等の都市部では101%に達しています。
安定した電力供給と冷蔵庫の普及は、家庭での食材管理の概念を大きく変えました。これにより、「料理のたびに市場で購入する」という習慣から、余った食材や調理済みのおかずを冷蔵庫で保存して次の食事で消費することが可能になったことで、日々の調理負担が軽減され、伝統的な「kho」が果たしていた「保存」の役割の切実さが薄れたのです。新鮮な茹で野菜は食卓に出す際に新たに調理される一方、肉などのおかずは保存が利くようになりました。
「kho」の意味の定着と Thịt kho tàu の普及: Bò khoの登場により「kho」という言葉が「煮込む料理」全般を指すようになった土壌の上に、経済発展とインフラ整備が後押しすることで、伝統的なThịt khoとは異なる、より現代的な「美味しさ」を追求したThịt kho tàuが、現代のベトナムにおいて主流の「Thịt kho」として広く受け入れられるようになりました。
結論
「Thịt kho」という言葉が指す範囲は、ベトナムの歴史と社会の変遷とともに進化してきました。伝統的なThịt kho(Thịt kho taなど)が、かつての厳しい生活環境下での「保存性」を最重視した知恵の結晶であったのに対し、RaguやBò xốt vang、Bò khoはフランス文化の影響を受け、「Tây」の要素を持つ「高級料理」として登場し、「kho」という言葉の概念を拡張しました。そしてđổi mới 政策後の経済発展とインフラ整備、食料自給の達成を経て、Thịt kho tàuは、より「柔らかく、美味しい」という現代の嗜好を反映した料理として台頭しました。
したがって、「Thịt kho」は、その歴史的背景と調理の目的において、現代の主流である「Thịt kho tàu」とは明確に異なる、より広い概念であるということを理解することが、ベトナムの豊かな食文化を深く知る上で不可欠ですし、その進化の背景には、ベトナム社会そのものの大きな変革があることを示しています。さらに、Thịt kho tàuがこれほどまでに普及したことで、「Tàu」という言葉が持つ「外来」や「中国」といった意味合いは薄れ、この料理自体がベトナムの食文化に深く根ざし、「ベトナム化」したと言えるでしょう。
参考資料:
JETRO(日本貿易振興機構): 在ベトナム日系企業のビジネス展開事例
ACCESS ONLiNE: ベトナムのマーケティングコラム「ベトナム人の消費行動と市場トレンドの変化」
このまとめは、Googleの無料版AIアシスタント「Gemini」との対話を通じて作成しております。
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