見出し画像

【感動】映画『ぼくとパパ、約束の週末』は「自閉症への理解が深まる」という点で実に興味深かった

完全版はこちらからご覧いただけます


親子でサッカースタジアムを巡る実話を基にした映画『ぼくとパパ、約束の週末』は、自閉症に対する理解がとても深まる作品でもある

なかなか面白い映画だった。とてもシンプルなストーリーによって感動的な人間ドラマを描き出す作品であり、本作は基本的にそういう点で評価されているのだろうと思う。しかし私は個人的に、「自閉症に対する理解が深まる」という点で本作が興味深く感じられた。

さて、色々と書いていく前に、まずは用語の注意点に触れておこう。「自閉症」と聞くと、私ぐらいの世代(私はこの文章を書いている時点で42歳である)だと「一切喋らず、コミュニケーションが取れない」みたいなイメージになるように思う。確かにそういう自閉症もいるのだが、本作で描かれる自閉症児は活発に喋るしコミュニケーションも取れる。実は、かつて「アスペルガー症候群」と呼ばれていた人たちが、今は「会話が可能な自閉症」という形に分類されているのだそうだ。「自閉症のイメージが違っていた」という人は、この点を理解しておくと良いだろう。

さて、そんな「会話が可能な自閉症児」であるジェイソンには「ルールを厳守する」という性質があり、そのルールも彼自身が決めている。作中では、「肉を食べるのは週に2回まで」「僕の身体に触れていい人は僕が決める」などが挙げられていた。そしてそんなルールの中に、「食べ物は捨てない」「僕の皿の料理には誰も触れさせないし、シェアも禁止」というものがある。ある場面でこれが大きく関わってくるので何となく覚えておいてほしい。

さて、ジェイソンはとにかく「持続可能性」にかなり敏感で、父親に「車じゃなくて電車に乗れ」と言うくらいだ。また、「肉の消費」について家族にまで制約を課すのも、「肉1kgを作るのに、1万5000リットルもの水を使用する」と知ったからである。彼は、地球を長生きさせるために自分の行動を制約できるタイプなのだ。

そんなわけで、ジェイソンには色々と細かなルールがあり、「それらを厳密に守らなければならない」と考えているのである。どう考えても大変そうだが、そういう性質を持って生まれてきてしまったのだから仕方ない、という感じだろうか。

「自閉症の理屈」がメチャクチャ分かりやすく描かれる「電車内でパスタを食べるシーン」

さて、そんなジェイソンの行動で、「なるほど、自閉症の人はこういう世界で生きているのか」と感じさせられたのが「電車内でパスタを食べるシーン」である。この時の出来事については、ジェイソン自身も後に「自身の行動原理」を説明する際に言及しており、「自閉症の人がどんな理屈で行動しているのか」がとても分かりやすく理解できるシーンと言えるのではないかと思う。

本作の舞台はドイツなのだが、ドイツの高速鉄道にはどうやら「車掌が席まで注文を取りにきて、座席で料理が提供される」というタイプのものがあるようで、ジェイソンは「パスタ(日本人的には「ペンネ」だろうか)」を頼んでいた。そしてこだわりの強い彼はここで、「パスタとソースは分けて盛り付けてほしい」と強く訴える。ジェイソンにとっては、「提供された時点でパスタにソースが掛かっている」なんてことは到底許容できないのだ。

さて、車掌はジェイソンの希望通り、ペンネとソースを分けて盛り付けてくれた。しかし当然と言えば当然だが、車掌はジェイソンのこだわりの強さを理解できておらず、皿の上のペンネ3つに少しだけソースが付着してしまっていたのである。とはいえ、普通は気にするようなことではないし、車掌も当然「これぐらいのこと問題ない」と判断したのだと思う。

しかしジェイソンにとっては大問題だった。彼はすぐに癇癪を起こし、そして目の前にいる父親に「解決して!」と強く迫ったのだ。

実はここに、ジェイソンの「食べ物は捨てないし、シェアも禁止」というルールが大きく関わってくる。ジェイソンは、「ソースが掛かってしまったペンネ」なんて絶対に食べたくない。しかし、その料理を捨てることも、他の人にシェアして食べてもらうことも、彼のルールに抵触するのである。こうしてジェイソンは袋小路に陥ってしまうのだ。

これが、ジェイソンが抱えている「困難さ」の一端なのである。

私たちも普段の生活の中で、「これだけは譲れない」「この意見は絶対に押し通す」みたいに感じていることはきっとあるだろう。しかし、色んな事情から上手くいかないこともある。「自分の意見を押し通したら、その状況そのものが無くなってしまう」とか、「絶対に譲れないと主張し続けたら、全員から嫌われて何も進まなくなる」みたいなことはあり得るし、そういう場合は「ある程度は仕方ない」と妥協する選択をしたりもするはずだ。しかしジェイソンはそんな判断をしない。ルールは絶対であり、仮にルール同士が矛盾し合って袋小路に取り残されたとしても、それでもルールを曲げようとしないのである。

ここで、ジェイソンがいかにルールを貫き通すのかがはっきりと伝わる場面も紹介しよう。かなり後半の展開なので具体的には触れないが、「父親がある事情から仕事で大ピンチに陥り、挽回するためには息子のルールに付き合ってなどいられない」みたいな状況でさえ、ジェイソンは父親の指示を無視し、「自分のルールに沿わないから」と従わない姿勢を見せるのだ。彼にとっては「父親が仕事で大変な状況に陥っていること」などどうでもよくて、何よりも「自分自身のルールを守ること」が最優先なのである。

だからこそ、「ソースが付いたペンネは食べない」「食べ物は捨てないし、シェアもしない」という完全に相反するルールが正面衝突したような状況で、「どう行動すべきか分からない」とフリーズ状態に陥ってしまうのだ。彼らが行動不能に陥るのは「ルール同士がぶつかり合っているから」なのであり、そのことが非常によく理解できるシーンだったなと思う。

もちろん忘れてはならないことだが、「自閉症」といっても様々で、色んな人がいる。本作の最後にも、「自閉症が必要とする支援は様々で人によって違う」と字幕で表記された。ジェイソンは「ルール同士の衝突」によってパニックを起こしてしまうわけだが、そういうタイプではない人だってもちろんいるはずだ。「1つの状況を理解したからといって全体を分かった気になってはいけない」という点には注意が必要である。ただそれでも、まず1つ理解することは、スタートとしては良いことだとも思う。

「騒がしい場所」が苦手な主人公がスタジアムに足を運ぶ困難さ

さて、本作にはもう1つ、自閉症を理解するための演出が組み込まれている。それが「ジェイソンが感じている聴覚の再現」だ。

自閉症の人は、聴覚が鋭敏になる傾向があるのだという。その事実は以前から何となく知ってはいたものの、ただ、どのような聴こえ方なのかは当然分かっていなかった。そして本作ではある場面で、「世の中の様々な環境音が、ジェイソンにはどのように聴こえているのか」を再現しているような演出がなされていたのだ。

恐らく多くの人が、「こんな聴覚世界だったらシンプルにしんどいだろう」と感じるのではないかと思う。

何かの本で読んだが、そもそも人間は様々な音をそのままの音量で聴いているわけではないという。例えば、心理学の世界で有名な「カクテルパーティー効果」は、「周囲の声が聴こえにくい状況でも、自分の名前や自分が必要としている情報ははっきり聴こえる」みたいな状況を指すのだが、このように我々の脳は様々な音を「必要か必要でないか」で判断し、「必要な音」が大きく聴こえるように調整しているのである。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集