本に呼ばれる日―吉本ばなな『キッチン』
本に呼ばれた、と思うことがある。
この本は私のために書かれた、とは思わない。
でも、今まで手に取らなかったのは、読むべきときが来るまで取っておいてくれたからだと思う。
吉本ばななの『キッチン』は私にとって、そういう一冊です。
3年前、父を亡くしたとき、喪主として忙しくしていたら、だんだん心の内側が減っていくような変な気持ちになった。
本屋に入って、今日はもう好きなだけ本を買い込もうと思って、平積みの本や、棚のなかの本を、タイトルだけで選んで、買って帰った。
『キッチン』というからには、料理をする場面がたくさん出てくる本なのかなと思っていた。
ところが2ページで、みかげの祖母が亡くなる。数日後—
「涙があんまり出ない飽和した悲しみにともなう、柔らかな眠けをそっとひきずっていって、しんと光る台所にふとんを敷いた。
ただ星の下で眠りたかった。」
あ、わかる。
すごくわかる。
それに「眠け」「しんと光る」のようなひらがなの工夫が、すごく好きになってしまった。
もうすこし、私の好きな一節を引用させてください。
「こんなに世界がぐんと広くて、闇はこんなにも暗くて、その果てしない面白さと淋しさに私は最近初めてこの手でこの目で触れたのだ。」
「台所の窓。友人の笑顔、宗太郎の横顔越しに見える大学の庭の鮮やかな緑、夜遅くにかける電話の向こうの祖母の声、寒い朝のふとん、廊下に響く祖母のスリッパの音、カーテンの色……畳……柱時計。
そのすべて。もう、そこにいられなくなったことのすべて。」
これはもう、現代詩だと思う。完全に。
「ぐんと広くて、こんなにも暗くて」のリズム。
「この手でこの目で」の畳みかけ。
「台所の窓。」から始まって、友人、大学の庭へ。
やがて音になり、ふとんの触感になって、うつらうつらとしながら聞く音、見える色、そして「柱時計」でふっと止まる。
「そのすべて。もう、そこにいられなくなったことのすべて。」この句読点の静けさ。
でも何より素晴らしいのは、個人的であるほど普遍的になるという、文学の神髄を教えてくれるところだ。
実はもうひとつ、『キッチン』で好きなところがある。
「大ゴマ+吹き出し外のナレーション」という少女漫画の文法が、小説の文体に内面化されているところだ。
活字文化と漫画文化が、きれいに溶け合っている。たとえば、
「肩にかかる髪がさらさら揺れた。いやなことはくさるほどあり、道は目をそむけたいくらい険しい……と思う日のなんと多いことでしょう。愛すら、すべてを救ってはくれない。それでも黄昏の西日に包まれて、この人は細い手で草木に水をやっている。」
ここで、「肩にかかる髪がさらさら揺れた」から
「いやなことはくさるほどあり…」への転換は、
少女漫画の引きのコマから、内面ナレーションへ切り替わるカットに見える。
「なんと多いことでしょう」の柔らかさは、読者に語りかける吹き出し外の感触そのものだ。
この視点の揺らぎ。
情景を外から描いているようで、突然内側の声になるところ。
少女漫画では、絵と文字を重ねて処理するものを、吉本ばななは、ひとつの文章の流れのなかですっと切り替えてしまう。
この切り替えかた、そして台詞の呼吸は、大島弓子の短編を思い出す。
線が細くて、余白が多くて。
ひらがなで書かれたような、白くて、すべすべして、柔らかい質感がある。吉本ばななも、それと同じことを活字でやっているのではないだろうか。
そう思って検索してみたら、吉本ばなな自身がインタビューで、大島弓子の影響について語っていらっしゃいました。
啓蟄という、生き物が冬ごもりから出てくる季節に、庭の菫も咲き始めました。
三杯めの紅茶を飲みながら、書き終えました。
次は『TUGUMI』を読みたいです。
※引用はすべて『キッチン』(吉本ばなな、角川文庫、令和2年59版)より
