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掌編小説|プリント後ろに回して

(3500字くらいあります)

1
「はい。このプリント後ろに回して」
最前列の俺はプリントを後ろに回そうとしたが、枚数が明らかに足りないことに気付いた。
後ろを振り返ると、何十列、いや何百列にも連なり遥か向こう側は蜃気楼みたいになっていた。
それに対して貰ったプリントの枚数は四枚。
俺はその内の一枚を取って後ろに回す事に罪悪感を覚えた。例えるならば川の上流に住んでいるからと言って、我田引水、というかその水を我が物のように扱うべきではない、というイメージが湧いたのだ。やはりこのプリントは公共のものであり、私がその25%を独占するだなんて事は考えられなかった。
ところで左右の人はどう判断するのだろうか?
そう思い、左側の人の手元を見てもやはり四枚。一枚取って後ろに回した。冷たい奴だ。
右側はどうだ?やはり一枚取った。みんな自分の事しか考えていないのだ。それが世間だ。
その瞬間、視界の端に入って来た風景を見て、驚いた。
俺の列だけが異様な長蛇でその他の列は4列だったのだ。そして、左右横並びも遥か遠くまで続き、一番遠く側などは概念みたいになっていた。
つまり、この状況を真上から見るとT字型で、俺は丁度その縦線と横線が接続される列の先頭に座っているのだった。
「早く回して下さい」
後ろの席の人が、せっついて来た。
俺は焦った。
後ろの人に、このプリントを見せて、「4枚しかないんです」と言うのは簡単で、気を抜いたらそうしたくなる。
だが、それをやると後ろの人にもこの重責を押し付ける様な気がして、出来なかった。
先生。
そうだ。先生に枚数が足りない旨知らせれば良いではないか。あまりの非現実的な状況に直面し、動揺していたのだ。
そのとき、手のひらに違和感を覚えた。
見るとプリントはどろどろに溶け、スライムの様になっていた。
「早くして下さい」
後ろが煩い。
先生。
そう言おうとしたが、声がのどに詰まった様になって、全然出ない。確か最後にまともに声を出したのは3か月前で、JRAウインズで言った「まくれ!」だった。
そんな思い出に浸っていたら机が鳥居みたいな形のほぞ組みになっていた。その上にかつてプリントだったスライムがどろりと垂れ、俺はすかさずエロスを感じた。
指と指の隙間から、更にひんやりとしたスライムが垂れ続け、仕口の隙間にまで充分に行き渡った。それはそれは、にゅるにゅるだった。
鳥居の表面は次第にざらざらに変わり、ついにはぞろりと表皮ごと剥がれ、真皮、というか木の内側が丸出しになり、それもしゅわしゅわと泡立ち、結局スライム状に変化した。
すっかりそれらは混ざり、俺の前はスライムの水溜りだけになった。
「早くして下さい」
何を早くしろというのだ。
スライムしかないのに何を回せと言うのだ。
「早くして下さい。どうしたんですか」
そう言いながら、その人は俺の首筋に一握りのスライムを入れて来た。
「わー!溶けるー!危ないじゃないか!」

2
「何が危ないんですか?」
あれ?
気がつくと駅の構内で、見知らぬ女が心配そうにしている。
「何だー夢かー」と言おうとしたのだが、その声は喉につかえて出てこなかった。
思えばまともに声を出したのは3か月前のJRAウインズ、ではなくてたった今言った、「わー!溶けるー!危ないじゃないか!」だった。
「何が危ないんですか?」
「あの、スライムに触れると皮膚が溶けるからですね、危ないです」
「スライム?」
「はい。スライムです。あれは何でも溶かすのです。いや?俺の手は溶けなかった。だから人体は大丈夫なのかも知れない」
「#なんのはなしですか?」
「狭いですね」
「そうですか?」
「ここは高さ1メートルくらいしかない」
「そうですけど」
「これで駅だなんて、みなさん大変でしょう」
「そうですか、ずずずー」
「なぜ急にうどんを食べるのですか?」
「出発までまだ時間があるから、食べておいた方がいいかな、と思いました」
「それはそうですね。これから長い道のりになるのだから」
「そうでしょう。だから私は、今のうちに食べました。一方のあなたは食べていないのですね」
「まずいな。この先、空腹に悩ませられる予感がするよ」
「この先、トイレもありませんよ」
「トイレに行っておこう」
「あと、1分で発車時間です」
「トイレも腹ごしらえもしていない」
「あとアルコール消毒もないし、お風呂もありませんことよ」
「何と言うことだ」
「ケータイの充電器はあります」
「ケータイ?スマホ、ではなくケータイ?」
「そうです」
「うぅ。何だか腹が痛くなって来た…」
「いいじゃありませんか。お花を摘めば良いだけです」
「野グソだろそれ」
「!…の、野糞!ぶはははははははははは!あー最高っ…!野グ!ぶほほっ!ぶはははははははははは!ひー!ひー!ノグっ!やめてー」
「何が面白い?野グソだろそれ。お花を摘むとかカッコつけてるけど」
「やめて!」
「?」
「やめてください。セクハラです」
「セクハラ?野グソに性的、なんてものがあるものか。野グソは野グソ以上でも野グソ以下でもない」
「それもそうね。いきましょ」
「おぉ」

3
『ギャラクシーエクスプレススリーナインウィルテイクユーオンアジャーニーアネバーエンディングジャーニーアジャーニートゥーザスターズ』
と列車に大きなゴシック体で横一列に書かれていた。
俺は一体何のことだかさっぱり分からなかった。
行き交う列車には、全てそう書かれていた。
勿論、右から来る列車は、『ズータスザーゥトーニーャジアーニーャジグンィデンエーバネアーニーャジアンオーユクイテルィウンイナーリススレプスクエーシクラャギ』と書かれていた。
カタカナで。
女は右鼻からうどんを出しながら唇をすぼめると、ぴろっと口からうどんを出した。つまり右鼻から出ているうどんの他端は今、唇から出ている状態で、つまりもっと言えば『ヌードルロープウェイ』である。
俺は遊び半分のつもりでキスをして、唇のうどんを吸った。
すると女は「おえええええー」と大声で嘔吐き、一呼吸おいて、ゆっくり呼吸を整えてから、セクハラ、と言った。
俺は下心など全くなく、なんなら女はボケでやっているものだと思っていたし、それならば、と最高のツッコミは何かを必死に考えた末の行動であって、だからそのセクハラ、とかいうセリフは受難としか思えなかった。
ただし、確かに誤算もあった。女の唇は思いの外柔らかく、しかも弾力に富んでいたのだ。
それに反比例するかの様に、うどんのコシは固く、確かにこれが鼻の粘膜を素早く通過するとなると、嘔吐くのは必定だと思いつつ勃起しながら咀嚼した。
「ギャラクシー何とかとは、何だ?」
女はまだ涙目だったが、「『銀河鉄道999』じゃないの、知らんけど」と言った。
俺はとにかく「知らんけど」が嫌いだ。
せっかくの勃起も、この一言ですっかり萎えてしまった。
「知ってるじゃないか」
「「詳しくは」知りません、と言う意味です。実際、ウラも取ってないし」
「最初からそう言えば良いじゃないか」
女は面倒臭くなったのか、はなしはそこで終わった。
女の顔を見ると、涙目の後に浮かび上がった乾いた目糞が、目頭に溜まっていた。俺はイヌネコもその位置に目糞が溜まって、黒くなりがちなんだよな、と思った。

4
私は物語を書きました。
シャープペンシルで、1文字ずつ書きました。
紙には限りがあります。
四枚。
そのA4コピー用紙の裏に書いた物語を、私は第1話から順に、後ろの人に回すことにしました。
そして最後に「面白ければ後ろの人に回して下さい」と書き添えました。
だから、後ろの人は回したかも知れませんし、捨てたかも知れません。
でも、私の思いつく限り、やれることはやったつもりです。ですから結果など気にしません。
その時その時で全力を出さねば、成長もないと、私は日々思っています。
生き方は人それぞれだし、私の生き方を否定する生き方も私は受け入れたいと思います。ですが、攻撃だけはいけない。なぜなら、攻撃を受けたからには、防衛をしなければならなくなるからです。つまり、反撃です。
それを想像してほしいものです。
決して議論をしたいわけではありません。
生き方は人それぞれで、個人の中で否定する分には全く構わない、と言っているだけです。
一方で、ひとは否定されることを恐れてはいけないのです。自己主張をするのです。
ただしこれは、相手を認めながらの、自己主張なのです。
これは、「アサーション」と呼ばれるコミュニケーション技法です。
人が否定されず、お互いにwin-winの関係を目指すものはアサーション、が有効です。
それが、プリントを回す事なんだと、私は感じたのです。
本音を言うと願わくば、何百列先の蜃気楼の向こうまで、私のこの物語が伝われば素敵だな、と思うわけです。
(面白ければ後ろの人に回して下さい)

(終わり)

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