掌編小説|ドアポスト
右手で縦に折ったチラシを持ち、左手の親指でドアポストを開く。そのまま開いた状態で、チラシをぐっ、と押し込んで行く。チラシが半分ほど入ったところで先端に抵抗を感じた。構わずさらに押し込み、半ば無理矢理入れる。
完全に家の中に入ったチラシは、ばさりと音を立て玄関土間に落ちた。すりガラス越しにばらばらに散ったチラシがうっすら見える。
少しの罪悪感と、完全に入れないとドアポストの隙間から虫が入ったら嫌だろうという心遣いとの間で心が揺れた。
きっとこんなチラシ、ゴミになるだけで、誰も要らないんだ、と思った。僕だってこんなパチンコ屋とか不動産屋とか月々一万円で新車が乗れるだとかのチラシなんていらない。それらは一枚につき0.5円で200軒押し込んだとしたら、100円だ。
ある家の前に来ると、黒くて大きいSUV車が停まっていて、エンジンもかかっていた。運転席には三十代くらいの如何にも学生時代に何某かのスポーツをやっていたような見た目の男が座っている。
僕はまるでエンジンがかかってないかのような素振りでその脇を通り抜け、ドアポストにチラシを押し込んだ。振り返ると運転席のパワー=ウィンドウが全開になっていて、男がこちらを見ている。「なにいれたの?」と男はいった。
「チラシです」と僕が答えると、「どんなの?」と男はいった。
僕は「こんな感じのですが」と言いながらチラシを見せると、「次から入れないで」と言い残して車は発進した。
白い排気ガスが少しだけ舞った。僕は地図を広げて、この家に×印を付けた。一瞬考えて、少し強めにもう一度×印をなぞった。「くそヤンキー」ということばも思い浮かんだが、ボールペンだったし、この地図は提出するものなので、それは書き込まなかった。
僕は初対面の人にタメ口を聞いたことがない。流石に小学生など明らかに敬語が相応しくない場合はそんな事はしないが、タメ口を戦略的に使い分けるような事はまずしたことがない。
それは僕が生存競争というところから離れた文化圏で育ってきたからかもしれない。
さっきの男は無意識のどこかでそういう計算をした上で、僕に対してそういう話し方をしたのだと感じた。
僕は別にそんな0.5円のために粘ったりまでして、この仕事をしているわけではない。不要だと言われたら即了解するつもりで配っているだけだ。
さっきも言ったようにこんなチラシ僕だって全然要らないんだから。
管理栄養士が立っていた。それは交叉点の真ん中だった。
その人はどう見ても管理栄養士のそれだった。彼女は右手にiQOSを持っていて、黒い一枚布を上手いこと折り返してワンピースのようにして着ていた。そう。丁度マツコデラックスみたいな装いだった。そしてちょうど同じくらい太っていた。髪型は坊主にしていて、レザーアートを施していた。水色のアイシャドウを入れていて目尻の部分は書道の払いみたいに鋭くシャッ、と描かれていた。頬は影になるように徐々に黒くしていて、小顔効果のようなものを狙っていた。空は晴れていて、彼女と彼女でないその境目はくっきりとしていた。サンリオキャラクタの縁取り線のようなものさえ見えるようだった。
なぜ僕は彼女を管理栄養士だとわかったのだろうか? それは太っているからだ。いや。太っているだけでは管理栄養士だとはさすがに思わない。それをごまかすためにアーティスティックの方に寄せまくっているからそう思ったのだ。それはオブジェクトとして確かにperfectであり、交叉点のど真ん中にあるマンホールの上に立っていた。
彼女は僕のことを一瞥して、iQOSを少し吸った。その上空にUFOがやって来て、彼女をマンホールごと回収した。強い風が一瞬吹いて、僕が手に持っていたチラシが舞い上がった。月々一万円から新車が乗れるような、そんな高揚した気分だった。
僕は家に帰ってから、『先入観をもたないひとの99のルール』の続きを読んでいた。電話が掛かってきて、明日のシフト出られなくなりました、と言われた。僕は本当にアイツはくそ人間だな、と思った。
(終わり)
