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短編小説|10F

戦争が始まる。
いつも戦争はなんとなく始まる。
戦争の雰囲気というのは何となく高まるのだけれど、戦争の開始というのはデジタル信号のようなものでは全然なくて、いくら偉いひとが線引きをしたとしても、実際の戦争の開始はやはり何となくである。
例えば、中隊長が撃て、の合図をしたとする。
命令どおりに兵隊たちが一斉に射撃をする。
その発砲の瞬間を、戦争の開始だと思うのはせいぜい射手だけであり、その他の命令を待つ兵隊たちはいい所戦争状態、という意識を共有しているのが精一杯で、やはり戦争が始まった、と実感するのは人によってバラバラなのだ。
それはどういうことかと言うと、つまり冷沢ひやさわは壕の中にいて、息を潜めていた。
満員電車から、年齢はバラバラなのだが全員固定給を支給された、正社員待遇の人間が、次々と出てきた。
全員が、中隊長からそのような指示もないのに、リュック=サックを身体の前側に装着している。つまり、彼らは生得的にリュック=サックを前側に装着する生き物なのである。
リュック=サックは軍隊においては背嚢、と呼ばれるため、字義どおりに解釈すると背負うものである。
また軍隊では特に指示や規定がない事項については、その言葉の意味を考え、行動するのが自然である。よって、リュック=サックを身体の前側に装着するのはやはり、生得的なものとしか言えなかった。冷沢は背負っていた赤いランドセルから猟銃を出して、すでに構えていた。
無線から通信兵の「構えー!」の合図が聞こえてくる。
無線を通じて言ったにもかかわらず、通信所から興奮した通信兵が出てきて、壕の中を走り抜けながら、肉声で改めて「構えー!」と言っている。
そうしている間にも敵側の銃弾は、冷沢が隠れている壕の近くにも着弾している。先制攻撃をされているようだ。命令系統が乱れているのか、「撃て」の合図はまだない。通信兵が飛び出してしまったのが影響しているのだ。
冷沢の左隣で、鉄帽も被らず、だらだらしながら小銃を構えている白いワイシャツの固定給の男が被弾した。
男は真顔のまま、冷沢の至近距離で濁った瞳を真っ直ぐに向けてきた。
冷沢は最初、ふざけているのかと思った。
そして戦争の開始、を自覚した。
冷沢の自覚は右隣で小銃を構えていた背の小さな固定給の男に伝わり、男のなかにある二枚貝が勝負パンツになり、小便を漏らした。
壕の中にいる全員の戦闘靴2型の中は蒸れ水虫に感染している。それはもう別にどうでも良いんだけど、掃除機。そう。掃除機。掃除機さえあればこんな悲しい戦争などやらずに済んだのに。壕の中の泥水はせっかく純粋な泥水だったのに小便が混入した。
銃を構えたらせっかくの綺麗な肘に泥が付いてるし。戦争がなければ肘は綺麗なままだったのに
。じゃないよ、まったくだから僕が最後の検査対象よ
 たーすけ
たすけ  すごーる 掃除機
。なん て素敵な 食べたかった シュールストレレレミング
  目玉が飛びっ!しぶきだしぶきっ
       たーすけっ! ゴウスッ!
だから最初っから俺はイヤっ!
 やめておけば良かった、もかったのに、
。すごーす、 。ゴースゴース
               たーすけっ?
居ないくない? 拾え! 俺は出るッ!やめろ出てどうするのッ!命令を待てば。
ゴースゴース。もうこんな戦争っ!戦争?まだ何も始まってないよ。見ろよもうこんなに死んじゃったじゃないかッ!装備を剥がそう。弾薬と食料を取ろう。お前にはココロと言うものがないのか?いいからそれは今考えるなお前はそれは後で考えようまずはこの状況をッ掃除機!
あー死んだ。あーあ。死んじゃった。もう生き返らない。あーあ。あーあ。あーワタシ。前髪切りすぎちゃった。もう戻らない。女子の前髪は命。何言ってるのアンタ!人が死んでるのに不謹慎な!掃除機!掃除機さえあればッ!
血みどろ。せっかく綺麗な泥水だったのに…あーあ。混ざっちゃった。分からなくなっちゃった。泥と血を分けることなんて、もう不可能なのだ。君達分かるか?君達の様な市井の者には分からぬだろうな。そう言う事が大切なのだよ。目先の事ばかりに追われて大局を見失っておるのだッ?!あーあ。死んじゃった。もう生き返らない。掃除機。

みんな、死んじゃった。

味方は今まで会った人たちで、向こうから攻めてくる敵も同じだった。
どれが敵か味方かなど分からない。
小学二年のアサが、「ひーくん。そんなの見れば分かるでしょ」と言った。
「分からないし分かりたくもない」と冷沢は言った。
アサは大人の端本ハシモトになって言った。「そりゃそうだ」
「ランドセル返すよ」
「そうだな。でもポプリは外してよ」
冷沢は無意識でポプリに鼻を近づけてできるだけ自然にすっ、と吸った。
「平皿は気持ち悪いにおいフェチ」と端本からぐにゃりと形が変わった妻が言った。
ランドセルをひっくり返すと、大学時代の冷沢の笑顔の写真やゲームウォッチのscuba、よく分からないおもちゃの縦笛、茶碗、「楽しい生活」と書かれた紙片などのがらくたが次々と出てきた。
冷沢はこれらをビニール袋に入れ替えた。
「パソコン音楽家」と名乗ると、その業界の人からせめてパソコンではなく「PC」と言ってほしい、などと言われる事があった。
冷沢はそう言われると余計に日本語化した「パソコン」こそが私の体を現している、と思った。今ビニール袋に入っている何気ない物たちの言葉を音に翻訳して入力するのだ。そうだ。何度も何度もそう思うが、その都度忘れてしまう一番大切な概念。母の死で気付いたこの概念でさえも忘れるとはどうかしてると自分でも思うのだが、その喪失をこのがらくたが繋ぎ留めてくれそうな気がした。

俺たちは壕から出て、敵の機関銃やら大砲の餌食になった。
大人には分からないし、それで良いのだ

温水がパソコンの前にいた。
「戦争は終わったのか」
「そうだ。俺は木っ端みじんになったな」
「drum setだろ。組んどいたけど」と温水は言って、冷沢にドラムスティックを渡した。
「悪いな」
スティックを下ろすとスネアドラムが、すこーん、と抜けるように響いた。
温水はチューニングキーを渡してきたが、冷沢は断った。
スネアドラムだけを何度も叩き、確かめるように冷沢は下を向いた。
「これからも悪くないよ」と温水は言った。
「それは私が決める事でありこれからも私が判断する事である」
「それが言えればもういいだろ、オレは住んでていいか?」
「私は三年前から住んでいないし占有権は意外と強力だ。drum setの音を聴いたから私はここには用がなくなった」
「そうか。まあオレはどっちでも良かったんだけどお前が言うなら居させてもらうわ」
「掃除はしてくれ」
「……。」

10F@2階部分

自室、というか温水が占有している部屋の一室だけが吹き抜けになっており、そこの階段を上ると、2階部分に寝室、クローゼット、風呂がある。
風呂に入ると湯船には垢がたくさん浮いて、湯も茶色く濁った。もう髪の毛もかなり伸びてしまったので、後ろで縛った。殆ど白髪だった。しかし、全く禿げておらず、顔の皺などと比較すると、むしろそれは不自然だった。
クローゼットで寝巻きに着替え、寝室に入るとラベンダーの香りが漂ってきた。冷沢はすぐに眠った。

0F

冷沢は今、ゲーム音楽を作っている。

壁には大学時代の笑顔の写真が飾ってあった。
ゲームウォッチ『scuba』も飾ってあった。
ゲーム内の海底では宮嵜が沈殿していた。
宮嵜は死ぬことができない。
「楽しい生活」と書かれた紙片も飾ってあった。
ポプリはなかったが、妻が家の何処かにいる気配は常にある。
子どもはもう大人になって、家を出た。
何だかよくわからないのだが、お金のことはそんなに心配要らなかった。
冷沢はとにかくお金の事がわからなくて、常にお金の心配をしていたが、元々何の心配もなかった。
妻はそんな事を心配していたのか、と笑った。
「良いから好きな事をやっておけ元々期待しとらんわ社会不適合のくせして真面目ぶりやがって鬱陶しいんじゃ」と言った。
冷沢は、老いた女の匂いが混ざってきた、と思った。

ゲームは、『10F』という名前だけは決まっていて、ゲームの内容も場所も登場するキャラクタも決まっていない。
誰にも依頼されていない。
冷沢は不慣れなクラシックギターの弦をはじいた。
アナログの波が室内に置かれた水槽に伝わり、中で少しだけふやけた冷沢の脳が揺れ、そこから電極を通してモニターに楽譜が出力された。

(終わり)

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