ダンマパダ110
百年の泥と、一日の光
第一章:百年の泥
源蔵(げんぞう)は、今年でちょうど百歳になった。
長寿を祝う国からの手紙も、市からの銀杯も、彼にとってはただの「金目のもの」でしかなかった。彼はその長い生涯のほとんどを、泥棒として生きてきた。スリ、空き巣、詐欺まがいの押し売り。他人のものをかすめ取り、疑い、常に誰かの足音に怯えながら生きてきた百年間だった。
彼の心の中には、いつも泥水が渦巻いていた。「明日はどうやって食おうか」「誰に騙されるかもしれない」「捕まったらどうしよう」。百年の長きにわたり、彼の心に平穏が訪れた日は一日たりともなかった。素行は悪く、心は常に乱れ、ただただ息をして、血を巡らせているだけの百年だった。
第二章:月明かりの邂逅
ある秋の夜、源蔵は総合病院の特別病棟に忍び込んだ。狙いは、金持ちの入院患者が見舞いに貰うであろう封筒や高級時計だ。百歳になってもその手口は狡猾だった。
しかし、足を踏み入れた一番奥の個室で、源蔵は予期せぬ光景に出くわした。
月明かりに照らされたベッドの上に、一人の少女が起きていたのだ。年齢は十八歳くらいだろうか。透き通るような白い肌と、ひどく痩せた体。彼女の腕には点滴の管が繋がれていた。
「誰かいるの?」
鈴を転がすような、しかしひどく弱々しい声が響いた。源蔵は舌打ちをし、逃げ出そうとしたが、少女は驚く様子もなく、ただ静かに彼を見つめていた。
「迷子ですか? それとも、何かお探しですか?」
彼女の声には、咎める響きも、恐怖も微塵もなかった。ただ、深い湖のような静けさがあった。
第三章:静寂の少女
少女の名前は小春といった。白血病を患い、十八歳という若さで、すでに医者からは残された時間がわずかであると告げられているという。
源蔵はなぜか逃げ出すことができず、ベッドの傍らに立ち尽くしていた。百年の泥棒人生で、これほど澄んだ瞳を向けられたことがなかったからだ。
「お前さん、怖くないのか。俺は悪人だぞ。泥棒だ」
源蔵が凄んで見せても、小春はふわりと微笑んだ。
「泥棒さんですか。でも、私のところには盗まれて困るものはありませんよ。あるとしたら、この病気くらい。もし盗んでくれるなら、少しだけ助かるかもしれないけれど」
彼女は冗談めかして笑った後、窓の外の月を見上げた。
「私はね、もうすぐ死ぬんです。でも、ちっとも怖くないの。今日一日、看護師さんが優しくしてくれた。窓から見える空が青くて綺麗だった。お母さんが手を握ってくれた。それだけで、私の心は満たされているんです。明日が来なくても、今日という一日を静かに、感謝して生きられたら、それで十分だから」
第四章:真のいのち
小春の言葉は、源蔵の胸の奥底に鋭く突き刺さった。
(なんだ、この娘は……)
死の淵に立たされているというのに、その心には一欠片の乱れもない。誰を恨むこともなく、己の運命を静かに受け入れ、ただ周囲への感謝と愛情に満たされている。彼女の精神は、すでに何かを超越した「悟り」の境地にあった。
源蔵は己の百年間を振り返った。
他人を騙し、奪い、憎み、常に何かに追われるように生きてきた一世紀。長生きこそしたが、彼の中には何一つ残っていなかった。彼の百年間は、この少女の「今日という一日」の尊さ、美しさに、遠く及ばないのだ。
「……負けた」
源蔵のしわがれた目から、枯れ果てていたはずの涙が溢れ出した。百年生きてきて、初めて流す悔恨と、そして深い感動の涙だった。
「お前さんは……俺なんかより、ずっとずっと立派だ。俺の百年の人生より、お前さんの一日の方が、何百倍も尊い」
源蔵は床に崩れ落ち、声を上げて泣いた。小春は細い手を伸ばし、泥に塗れた源蔵のしわだらけの手を、ただ静かに優しく握りしめた。
素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
源蔵はその夜、何も盗まずに病室を後にした。しかし彼の心の中には、十八歳の少女から与えられた「静かで温かい光」が、確かに灯っていたのだった。
