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ヨルシカ「千鳥」「櫂」|2つのMVが補完する『二人称』の設計図

昨日、2026/03/11 ヨルシカ「櫂」のMVが公開されました。直近で公開された「千鳥」との関係性の深い楽曲になっています。ニューアルバム『二人称』を語る上で外せないこの2曲について、MV公開を踏まえて考察していきます。どうか、最後までお付き合いください。

最後の2曲


22曲の旅路を辿り、少年が手紙を受け取り、他者の言葉を借り、やがて自分の声を見つけ、海へ漕ぎ出していく——ヨルシカのアルバム「二人称」はそういう作品だった。

前回の記事では、アルバム全体の構造を辿った。22曲が3つのフェーズに分かれること。既発曲がアルバムの中で別の温度を帯びること。suisの声が曲ごとに変容すること。n-bunaの怒りが、80分の賭けとして結実したこと。

▼前回の記事

しかし、「千鳥」「櫂」のMVを見て新たに気づいたことがある。

20曲目「千鳥」と21曲目「櫂」。アルバムの最後に配置されたこの2曲のMVには、アルバム全体のコンセプトを読み解くための鍵が埋め込まれていた。しかも、それは音楽だけでは見えない。映像の中にこそ、決定的な情報がある。

千鳥のMVが公開されたのは3月4日、アルバムのリリース日。櫂のMVが公開されたのは3月11日。この日付を見て、ある予感を持ったリスナーは少なくないだろう。

2曲のMVを軸に、「二人称」の新しい読みを提示する。

「借り物の言葉」が終わる瞬間


赤いシャツの少年

千鳥のMVは、列車の窓から始まる

CGクリエイター・森江康太が3DCGで精緻に再現した列車の車内。紫色のモケット張りの座席、窓枠に落ちる夕暮れの影。窓の外を流れていく風景——そこに映るのは新花巻駅のホームだ。宮沢賢治の故郷、岩手県花巻市。JR釜石線の新花巻駅から釜石方面へ向かう列車の車窓。

この冒頭で、もう伏線が張られている。

やがて画面に少年が現れる。赤いシャツに黒いサスペンダー。ギターケースを背負って、風の中を歩いている。

赤いシャツ

宮沢賢治の詩「風がおもてで呼んでゐる」には、こう書かれている。

さあ起きて赤いシャッツと
いつものぼろぼろの外套を着て
早くおもてへ出て来るんだ

「風がおもてで呼んでゐる」/ 宮沢賢治

少年が着ている赤いシャツは、賢治の詩に記された「赤いシャッツ」そのものだ。風に呼ばれて外に出た病人の服——それがMVの少年の衣装になっている。偶然ではありえない。歌詞のモチーフが、音ではなく映像に、しかも少年の衣装という形で埋め込まれている。

MV中盤には、地面に開かれた本がクローズアップされるシーンがある。ページにはっきりと記されているのは、「風がおもてで呼んでゐる」の詩句。「さあ起きて」「いつものぼをぼろの外套を着て」——賢治の手書きの、あの詩だ。映像の中に、モチーフの出典がテキストとして直接示されている。文学的引用を音楽に変換するだけでなく、変換の元になった原典そのものを映像に焼き付けた。

引用という方法が変わった日

n-bunaは「千鳥」について、決定的な言葉を残している。

「初めてでした。引用をするために言葉を探すんじゃなくて、今の僕の心を表すために、言葉を探して、引用したんです」

(Billboard JAPAN「千鳥」n-bunaコメントより)

YouTube動画の概要欄にも、n-buna自身の言葉が記されている。「それで、風が吹いていました。髪が頬に当たってくすぐったく思いました。宮沢賢治のあの詩が浮かんだんです。図書館に通うようになって覚えた、僕の好きな詩です。風がおもてで呼んでゐる」。

ここにあるのは、身体の感覚が先にある引用だ。風を肌で感じ、髪が頬に触れる感触があり、その身体的な体験が賢治の詩を呼び起こした。頭で選んだ引用ではない。身体が思い出した引用だ。

この発見の重みを理解するには、n-bunaの創作史を知る必要がある。ヨルシカの楽曲は、文学的引用を音楽に変換する手法をアイデンティティとしてきた。太宰治の『斜陽』をモチーフにした「斜陽」。宮沢賢治の『春と修羅』を音像にした「修羅」。萩原朔太郎の「蝶を夢む」を翻案した「太陽」。先行する文学のテクストを出発点とし、そこからメロディとアレンジを紡いでいく——引用は、ヨルシカの創作における「入口」だった。

だが「千鳥」ではその順序が逆転した。まず自分の心にある感情がある。風の感触がある。それを表す言葉を探す。探した先に、宮沢賢治の詩を見つけた。引用が入口ではなく、自分の身体の感覚が入口になった

そしてこの転換は、アルバムの物語とも完全に重なっている。少年は前半で文学作品の引用に頼り、中盤で他者の言葉を借り尽くし、終盤——まさに「千鳥」の地点で——初めて自分の声を見つける。物語の中の少年の到達と、物語の外にいるn-bunaの到達が、この1曲で交差した。

病床の詩人が呼ぶ風

「千鳥」のモチーフとなった宮沢賢治の詩「風がおもてで呼んでゐる」は、詩集『疾中』に収められている。

『疾中』——「病の中」を意味するその名の通り、賢治が肺浸潤と闘いながら1928年から1930年にかけて書いた詩篇群だ。もう死んでもいいと思いながら、まだ生きたいとも願う。その悲喜交交とした病床から、賢治は風の声を書いた。

風が病人を呼んでいる。外に出ろ、と。この呼びかけは二つの意味を孕んでいる。生きるための励ましであり、同時に死への誘いでもある。外の世界は生命に満ちているが、病んだ身体にとって、その風は致命的にもなる。

YouTubeのコメント欄にこう書いたリスナーがいた。「冬の風の"死"への恐怖があった原詩に対し、この歌では夏の風で"生"への決意になっている」。鋭い読みだ。MV冒頭の陽光に満ちた風景、風に揺れる少年の赤いシャツの裾、画面全体に吹き抜ける空気の動き——映像のすべてが「生」の側に振り切れている。「千鳥」は、賢治の詩の死の気配を反転させ、生の衝動に変換している。風は呼んでいる。ただし「死ね」ではなく「生きろ」と。

千鳥の歌詞を聴いてほしい。

風がおもてで呼んでいる
飛んでいる
三時半 腕を振って
千鳥足の私 不確かに
今日も回り道

千鳥 / ヨルシカ

「三時半」——午前三時半。夜明け前の最も暗い時間。そこで腕を振る。MV内では、暗い画面に白い腕のシルエットが映し出され、歌詞がテロップとして重なる。暗闇の中で身体を動かすこと。踊ること。それ自体が、生きている証だ。

そして繰り返されるサビの言葉が、この曲のテーマを一文で言い切っている。

たぶん私は生きている

千鳥 / ヨルシカ

「生きている」と断言しない。「たぶん」と言う。確信のない、千鳥足のような不安定さの中で、それでも生を肯定する。終盤には「たぶんあなたも生きている」に変わる——自分一人ではなく、あなたにも同じ不確かな生を見出している。賢治の詩が持っていた死の気配を反転させた先に、この「たぶん」がある。

ホーンセクションが炸裂するサビは、その衝動の音像化だ。トランペットとサックスのユニゾンが空間を満たし、カッティングギターが16ビートで細かく刻む。n-bunaが「突き抜けるようなホーンセクション」と表現したサウンドは、病床に閉じ込められた詩人の窓を蹴破る風のように、21曲分の蓄積を突き破って噴き出す。身体が先に動く。頭より先に足が踏み出す。それが「千鳥足」だ。

鹿が踊る理由

千鳥のMVを観て、目を引くのは鹿のマスクを被ったダンサーだ。森江康太のCGが生み出したこのキャラクターは、野性的かつ洗練された動きで躍動する。背中のマントが鹿踊りのカシラ——頭飾り——を思わせる。

なぜ鹿なのか。宮沢賢治には『鹿踊りのはじまり』という童話がある。

物語はこうだ。百姓の嘉十が山に向かう途中、栃と粟の団子と手拭いを野原に置いていく。すると6頭の鹿が集まってくる。鹿たちは団子ではなく手拭いに興味を示し、「干からびたなめくじだ」と結論づけ、その周りをめぐって踊り始める。嘉十はすすきの陰からその光景を観て、やがて鹿たちの言葉がわかるようになり、自分も踊りたくなって飛び出してしまう。

YouTubeで鋭い考察を書いたリスナーがいた。「手拭い=音楽。別になくても生きていける。でもあると踊り出したくなる。n-bunaたちが落とした音楽という手拭いを囲んで踊るように楽しむ私たちを、鹿に例えているのではないか」。

この読みは深い。しかも、もう一層踏み込める。

鹿踊りは、岩手県花巻に伝わる郷土芸能だ。鹿の被り物をして鹿の霊を鎮める祭り——つまり、亡くなったものを供養する踊り。ヨルシカの世界には、音楽を辞めて姿を消したエイミーがいる。彼の物語は『だから僕は音楽を辞めた』と『エルマ』で描かれた。もしMVの鹿が、エイミーという「失われた創作者」の霊を鎮める踊りだとしたら——千鳥のMVは、ヨルシカの過去作をも供養する祭りだ。

岩手出身で実際に鹿踊りを踊っていたというリスナーが書いていた。「鹿=エイミーの腕と足の取り回しが鹿踊りに似ていて、背中のマントが鹿踊りのカシラを彷彿とさせます。透明エレジーをボカランで見つけたときから聞いてますが、ちょうどあの頃踊っていた鹿踊りの存在が思い出されて、不思議と懐かしい気持ちになりました」。舞踊の身体感覚を知る人だけが気づける類似だ。

そしてもう一つ。ヨルシカの名は「夜しかもう眠れずに」に由来する。「ヨルシカ」——夜の鹿。バンド名にとって、MV内の鹿が持つ意味は偶然ではありえない。

色が変わり、世界が溶ける

千鳥のMVは、色彩の設計が異常に緻密だ。

冒頭は澄んだ青空。新花巻駅の列車の窓から見える、光に満ちた岩手の風景。清涼感のある青と緑が基調だ。少年が列車を降り、歩き始めると、風景は徐々に変化していく。

中盤に入ると、空気は夕焼けのオレンジに染まっていく。鹿のダンサーが登場し、彼の踊りが激しさを増すにつれ、画面全体がオレンジと赤に包まれる。ここで視覚の温度が変わる。青の清涼さから、オレンジの熱さへ。音楽のサビに合わせて、カラーパレットそのものが「爆発」する。

そして終盤。画面には砂漠のような風景が広がる。空を泳ぐ魚。砂丘を横切る蛇のようなシルエット。現実と非現実が混濁していく。蝶の羽が舞い、雲が流れ、猫がどこかを見つめている——22曲のモチーフが、ここで一気に映像に溶け込む。

色は深い夜の紺色に沈んでいく。

ラストシーン。夕焼けが残る砂丘を背にして、赤いシャツの少年が一人、歩いていく。空には月。足元には果てしない砂の海。その後ろ姿は、孤独でありながら確かな意志を持っている。

このカラーパレットの推移、青→オレンジ→紺は、アルバム全体の感情の弧と対応している。前半の浮遊感(青)、中盤の爆発(オレンジ)、終盤の内省(紺)。3分間のMVの中に、80分のアルバムの感情地形が圧縮されている。

アルバムを凝縮する3分間

千鳥のMVには、もう一つの仕掛けが隠されている。アルバム全22曲の要素が、映像の中に散りばめられている

YouTubeコメントで、あるリスナーがタイムスタンプ付きで対応関係を指摘していた。この対応を、各曲の歌詞と照合してみた。

注目すべきは、歌詞に直接的なキーワードを持つ曲(プレイシックの「クロール」、太陽の「蝶の羽」、火葬の「燃える」、ルバートの「踊る」)と、タイトル自体がモチーフになっている曲(雲になる、へび、千鳥、櫂)が混在していることだ。MVの映像を作った森江康太は、歌詞を読み込んだ上で、各曲の核となるイメージを一つのビジュアルに変換している。

一方で、対応が不確定な曲もある。「アポリア」(14曲目)のMV内の対応とされた「飛行機のような形」は、歌詞を確認すると飛行機も翼も登場しない。アポリアの歌詞にあるのは「あなた」への語りかけと地球の運動への問いかけだ。もし対応するとすれば、映像中の「空に向かう軌跡」が天体の運行を暗示しているのかもしれない。確証はないが、だからこそ面白い。千鳥のMVは、明示的な引用と暗示的な引用の両方で22曲を織り込んでいる。

この対応関係が確認できたとき、千鳥のMVは単体の楽曲の映像化ではなくなる。22曲の旅路そのものを3分間に圧縮した「アルバムの縮図」だ。通しで聴かなければ見えない地形がある、と前の記事で書いた。千鳥のMVは、その地形を俯瞰する鳥瞰図だ。タイトルの「千鳥」が鳥であること——空から全体を見渡す存在であること——は、この読みと符合する。

さらに、森江康太のCG技術がこの仕掛けを可能にしている。以前「左右盲」のMVでは、手描きアニメーションに見える映像の半分以上が実は3DCGで制作されていたことが明かされている。Mayaを使ったキャラクターモデリング、太陽光のライティング設計——その技術力が、千鳥のMVでは「現実の風景(新花巻駅)」と「幻想のモチーフ(空飛ぶ魚、踊る鹿)」をシームレスに溶け合わせている。CGだからこそ実現できた、リアリティと幻想の境界が消える映像体験だ。

月光と太陽

千鳥のMVのラストシーンに、もう一度戻る。

砂丘を歩いていく少年の頭上に浮かぶ月。あるリスナーの言葉が印象に残る。

「ノーチラスで少女が最後に見たのは海辺の太陽で、千鳥で少年が最後に見たのは砂の海に浮かぶ月」。

この対比は美しいだけではない。構造的に意味がある。

「ノーチラス」で、エルマはエイミーの足跡を辿り、最後に海辺の桟橋で朝日に向かって旅立った。太陽——希望、覚醒、自ら発する光。

「千鳥」では、少年の前に広がるのは砂の海と月。月光——内省、反射、借りた光。太陽が自ら輝くのに対し、月は太陽の光を反射して輝く。それは「引用」の比喩でもある。借りた光で照らされた世界を見つめている少年。しかしその月光の中で、少年は自分の足で歩き始めている。

しかし、櫂のMVでは太陽が現れる。

歌詞にある「少しだけ太陽を見ていた」に呼応して、MVの画面には地平線から立ち上がる赤い太陽が何度も描かれる。加藤隆の手描きの線が生み出すその太陽は、時に卵のようにも見える。赤い球体。生命の始まりを予感させる形。

千鳥=月(反射光=引用、借りた光)。櫂=太陽(自発光=自分の声、自ら発する光)。

この天体の対位法はアルバム内の楽曲とも呼応している。7曲目「太陽」は萩原朔太郎の「蝶を夢む」をモチーフにした曲で、「美しい蝶の羽を見た」と歌われる。n-bunaは「太陽の光を蝶の羽に見立てて書いた」とコメントしている。19曲目「月光浴」についてn-bunaは、月=「月日」(=歳月、光陰)と定義した。月光を浴びるとは、時の流れに身を浸すことだ。 19曲かけて月日を浴び続けた少年が、21曲目「櫂」でついに太陽を見上げる。借りた光(月光=引用)から、自ら発する光(太陽=自分の声)への到達。

あのラストシーンの砂漠は、書簡型小説の一節を思わせる。先生がエルマに語った言葉——「大きな大きな言葉の砂漠が広がる。その砂に紛れて大小様々な石が転がり隠れている。君はそこから自分の思う宝石を取り出す方法を学ぶんだよ」。

少年はその砂漠に立っている。赤いシャツを風にはためかせ、月に照らされながら。そしてその先にある「櫂」で、少年は太陽を見上げる。

怒りの果てにある凪


3月11日に漕ぎ出す

櫂のMVが公開されたのは、2026年3月11日。

東日本大震災から15年目の日に、波と海を描いた楽曲のMVを公開する。偶然だろうか。公式にはこの日付と震災の関連は一切語られていない。n-bunaもインタビューで言及していない。だからこれは仮説だ。しかし、歌詞を読んでみてほしい。

貴方の櫂を貸して
悲しむように漕いでゆくだけの
私の錨を知って
波よ止まないでくれ

櫂 / ヨルシカ

「錨」——「いかり」と読む。怒り(いかり)との掛詞だ。

n-bunaはこのアルバム全体のテーマの一つが「怒り」であると語っている。そして「櫂」はその「怒り」への回答として書かれた楽曲だ。しかし、錨と怒りの二重性は、n-bunaの業界への怒りだけでは説明しきれない射程を持っている。

YouTubeのコメント欄に、震災との関連を考察した長文がある。その読みを要約するとこうなる。

「怒りがテーマなのに曲全体が美しい。それは、世間一般的に見た自然のイメージが美しいものだから。でもその自然が起こした災害で大切な人を失った人たちの中には、行き場のない怒りがある。自然には感謝している。でも失ったことに対する怒りは心の底で消えない。"私の錨を知って"とは、そのやるせない思いを知ってほしいという歌詞ではないか」

別のリスナーはこう書いた。「波を漕いで行ってしまう櫂(あなた)と、とどまった錨(わたし)。漕いでいかないで欲しい、錨を知って欲しい、とどまっていてほしい」。

櫂は前に進む道具。錨は留まるための道具。進むことと留まること。旅立った者と残された者。この対比は、震災の文脈に限定されない普遍性を持つ。大切な誰かがいなくなったすべての人に、この歌は届く。

ギターのサウンドホールから始まる世界

櫂のMVは、一つの円から始まる。

加藤隆が描いた画面の中央に、ギターのサウンドホールが浮かんでいる。弦楽器の胴に開いた暗い穴。そこから光が溢れるように、世界が広がっていく。

この冒頭は、千鳥のMVとの決定的な差異がある。千鳥は新花巻駅の列車の車窓から始まった。現実の場所、現実の乗り物だ。櫂はギターのサウンドホールから始まる。楽器の内部だ。外の世界から出発した千鳥に対し、櫂は音楽の内部から出発する。

サウンドホールの中から見える光は、音そのものの可視化だ。アコースティックギターの弦を弾いたとき、音は胴体の中で共鳴し、サウンドホールから外へ放たれる。MVの冒頭は、聴こえる音が目に見える光に変わる瞬間を描いている。

やがて、人物のシルエットが現れる。道の中央をこちらに向かって歩いてくる影。背後には放射状の光が広がっている。逆光のために顔は見えない。千鳥の赤いシャツの少年が具体的な肉体を持っていたのに対し、櫂の人物は匿名的な影だ。身体を持つ存在ではなく、身体を失いかけた存在。これから「幽体離脱」する者の予兆だ。

線が溶け、形が流れる

千鳥のMVが森江康太の3DCGで構築されていたのに対し、櫂のMVは全く異なる映像言語で語られている。

加藤隆のアニメーションは、水彩画、インク、鉛筆のスケッチが混ざり合った有機的な質感を持つ。CGのような均質さは一切ない。画面には常に紙の質感が滲み、描線は揺らぎ、色は画布の上で自然に染みていく。描き損じすら表現の一部として取り込む。人の手で描いた体温が、映像から立ち上がってくる。

このMVの最大の特徴は、絶え間ない変容だ。

小舟が波間に漂っている。その波が黄金色の草原に変わる。草原の上を滑る小舟が鳥の翼に変わる。翼が花びらに散っていく。すべてがシームレスに繋がり、一つの映像の中で何度も生と死と再生が繰り返される。

歌詞の「絵の具が溢れていく絵のよう」。まさにこの描写が、加藤のアニメーションそのものだ。色は溢れ、形は崩れ、新しい形が生まれる。歌詞が映像技法の設計書になっている。

色彩にも設計がある。序盤は淡い紫と青。楽曲が展開するにつれて、オレンジと深い赤が混ざり合い、やがて紺色に沈んでいく。終盤のクライマックスでは鮮烈な赤が画面を支配し、最後にはクリーム色へと溶けて消える。千鳥のカラーパレットが青、オレンジ、紺の3段階だったのに対し、櫂のそれは境界のないグラデーションだ。色もまた、形と同じように溶けていく。

幽体離脱

櫂の歌詞は、最初の一行から異質だ。

私が離れた 幽体離脱
行く当てはないのでしょうが
美しい蝶の羽根を手に入れたみたいだ

櫂 / ヨルシカ

「幽体離脱」。この言葉がアルバム21曲目の冒頭に来ることの衝撃。20曲かけて「身体」を持った存在として歌われてきた少年が、ここで身体から離れる。

MVではこの歌詞に合わせて、人物のシルエットから何かが抜け出すように、輪郭が二重になり、やがて片方が蝶の羽根へと変容する。蝶は東西を問わず魂の象徴だ。萩原朔太郎の「蝶を夢む」をモチーフにしたアルバム収録曲「太陽」との接続もここにある。

歌詞には四季が折り込まれている。

「春風の感触がして / 少しだけ太陽を見ていた」——春
MVでは、地平線に巨大な太陽が浮かび、人物はその光をただ見上げている。暖かい光の粒子が画面に舞う。

「悲しみに秋の日差しが隠れたみたいだ」——秋
画面のトーンが沈み、暖色が褪せていく。

「春風に舞うのでしょうか / 絵の具が溢れていく絵のように」——再び春

冬がない。死の季節を飛ばして、春と秋の間を行き来している。身体を離れた存在にとって、時間は直線ではない。季節は循環する。春に生まれ、秋に散り、また春に還る。

そして「絵の具が溢れていく絵のよう」——この表現は五感を揺さぶる。色が画布から零れ落ちる光景を、耳で聴いている。視覚の比喩が聴覚を通じて入ってくる。suisの声は、この一節をほとんど囁くように歌う。MV上では、まさに画面全体から色が溢れ、輪郭が崩れ、絵の具が水に溶けるように風景が流動する。歌詞が描写しているものを、映像がリアルタイムで実行している。聴くことと観ることが、同時に同じ体験になる——これは「共感覚」の映像化だ。

身体を忘れた私

歌詞の第四連は、さらに深い場所へ降りていく。

私を離れて 幽体離脱
海まで向かったのですが
身体を忘れてしまった私がいました

櫂 / ヨルシカ

「身体を忘れてしまった」。この一文は、櫂のMV全体の設計原理そのものだ。MVではここから、歌詞に呼応する映像が畳みかけるように展開される。

まず、魚の群れが画面を埋め尽くす。イワシのような大量の魚が渦を巻きながら泳ぎ、やがてその群れが一つの巨大な「目」の形を描く。身体を忘れた「私」が海に向かう——その海の中で、無数の生命が一つの感覚器官を形成している。個であることを手放した結果、全体が一つの「目」になる。見るという行為が、個人の身体を離れて、世界そのものの知覚に変わる瞬間だ。

次に現れるのは、胎児のように丸まった人物がゆっくりと形を変えていくモーフィング。人間が鹿になる。鹿が植物になる。植物が線になり、線が波になる。この変容は輪廻転生を視覚化しているとも読めるし、あらゆる生命体が根底で繋がっているという宮沢賢治の世界観との接続とも読める。

そして中盤、大地を疾走する鹿が力強い筆致で描かれる。千鳥のMVで森江康太のCGが生み出した鹿のダンサーが「踊る鹿」だとすれば、加藤隆の描く鹿は「走る鹿」だ。同じモチーフが、異なる映像作家の手を通して、異なる身体性を獲得している。

さらに終盤近くには、白骨化した鹿の頭部が映し出される。走っていた鹿が骨になる。死の象徴だ。しかしMVはそこで止まらない。白骨の後に再び生命の映像が続く。死は終わりではなく、変容の一局面にすぎない。

あるリスナーがこの変容に気づいていた。「彼女は、自分の"身体"を忘れたから、鳥や花、波、色んな生き物、地上にあるものになっているんじゃないだろうか」。

船を漕ぐための櫂。それは推進力だ。しかしMVの映像世界では、鳥の羽根も、魚の尾びれも、蝶の翅も——すべてが「前に進むための道具」として描かれる。コメント欄に書かれていた言葉がある。「船が推進するための櫂であるように、生き物が推進するための羽根や尾びれを"櫂"として表現するの素敵すぎる」。

身体を忘れ、鳥にも花にも波にもなれる存在にとって、あらゆる生命の推進力が「櫂」になる。この曲は、特定の誰かの物語ではない。生きとし生けるものすべてが持つ「前に進む力」の歌だ。

そしてクライマックス。MVの終盤で、少年が空に向かって両腕を大きく広げる。身体を忘れたはずの存在が、最後に身体の動きで世界に対峙する。両腕は翼のようでもあり、櫂のようでもある。その姿は一本の線に集約され、背景のクリーム色に溶けていくように消える。形が消えても、動きの記憶だけが残る。 これがフェードアウトの映像版だ——消えたのではなく、見えなくなっただけだ。

声が千の鳥になる

櫂の歌詞には、大半のリスナーがすぐに気付くであろう一節がある。

私の声よ行って
海を呑み干す千の鳥になれ

櫂 / ヨルシカ

千の鳥、つまり千鳥

21曲目「櫂」の歌詞の中に、20曲目「千鳥」の名前が呼ばれている。

「私の声よ行って」——声を放つ。「海を呑み干す千の鳥になれ」——その声が千の鳥となって、海を呑み込む。これはメタ的な構造だ。櫂は千鳥に語りかけている。あるいは、千鳥は櫂の中から生まれた存在だ。

この1行で、千鳥と櫂の関係が反転する。千鳥がアルバムの「総括」であるならば、櫂はその総括を「送り出す」曲だ。千鳥は声そのもの。櫂はその声を漕ぎ出す力。声と力。叫びと意志。千鳥と櫂は、分かちがたい一対だ。

「凪げ」と「止まないでくれ」

アルバムの中で、「櫂」と呼応する楽曲がある。8曲目「晴る」だ。

「晴る」のクライマックスで、suisはこう叫ぶ。

胸を打つ音奏で
僕ら春風
音に聞く晴るの風
さぁこの歌よ凪げ!

晴れに晴れ、花よ咲け
咲いて春のせい
あの雲も越えてゆけ
遠くまだ遠くまで

晴る / ヨルシカ

その瞬間、演奏が止まる。バンドサウンドが消え、suisの声だけがアカペラで残る。楽器のすべてが沈黙する中に、声だけが裸で立つ——あの息を呑む瞬間。

一方、「櫂」のラストではこう歌っている。

貴方の櫂を貸して
悲しむように漕いでゆくだけの
私の錨を知って
波よ止まないでくれ

止まないでくれ

櫂 / ヨルシカ

止めることと、止めないこと。 「晴る」が演奏を止めた場所で、「櫂」は演奏を止めない。しかも「櫂」の終わりはフェードアウトだ。音量が徐々に小さくなり、やがて聴こえなくなる。明確な終止がない。曲が終わったのではない。あなたの耳の届く範囲から離れていっただけだ。

あるリスナーはこう書いた。「最後フェードアウトで終わるの、この曲に、人生に真の終わりがないことをあらわしてんのかな」。

「晴る」が8曲目——中盤の冒頭——に配置され、「櫂」が21曲目——終盤の頂点——に配置されていることは偶然ではない。「凪げ」が物語の途中で求めた静寂に対して、「止まないでくれ」は物語の終わりで前進を求めている。同じアルバムの中で、静止と運動が応答し合っている。

窓の外の群衆

櫂のMV中盤に、異質なシーンがある。それまでの有機的なモーフィングが一瞬止まり、空から同じ格好をした多数の人影が、垂直に整然と降下してくる。加藤隆の流れるような描線の中に、突然幾何学的な秩序が侵入する。

あるリスナーがこの映像の出典を即座に指摘した。「ベルギーの画家ルネ・マグリットの代表作"ゴルコンダ"のオマージュだと思います」。

マグリット「ゴルコンダ」(1953年)。黒いオーバーコートと山高帽の男たちが、空中に菱形のグリッドに沿って浮遊している絵画。マグリット自身がこう語った。「たくさんの男がいる。いろいろな男たちだ。だが、これだけたくさんの男が同時に現れると、それぞれの個性を考えることはなくなる」。

個性はある。しかし匿名化される。 群衆の中に溶ける個人。この矛盾は、「身体を忘れてしまった私」という歌詞と共鳴する。身体を手放した存在は、あらゆるものになれる代わりに、自分が誰であったかを忘れる。

さらにこの考察を追ったリスナーは、マグリットの別の代表作「人の子」が、ジョージ・オーウェルの『1984』の角川文庫版の表紙に使われていることを指摘した。『1984』の言葉狩りと監視社会をテーマに「盗作」して作られたのが、ヨルシカ「思想犯」だ。

マグリット→オーウェル→ヨルシカ。引用の連鎖。そして「櫂」がn-bunaによって「引用のない楽曲」と位置づけられていることを思い出してほしい。引用の連鎖の終着点に、引用のない楽曲がある。 マグリットのオマージュをMVに忍ばせながら、楽曲そのものは引用から自由になっている——この矛盾こそが、「櫂」の核心だ。

引用が終わる場所

n-bunaは「櫂」について、「引用のない楽曲」だと語っている。

千鳥が「引用の転換」——他者の言葉を自分の感情から探しに行った楽曲——だとすれば、櫂は「引用からの卒業」だ。

アルバムの物語に沿って読めば、こうなる。少年は前半で宮沢賢治を引用し、萩原朔太郎を借用し、北原白秋を参照した。中盤で他者の声を借り尽くし、終盤の「うめき」「啄木鳥」で自分の言葉を紡ぐ苦しみに直面した。「千鳥」で初めて自分の感情を起点に引用を選び、そして「櫂」で——ついに引用なしで詩を書いた。

歌詞を読み返す。

貴方の櫂を貸して

櫂 / ヨルシカ

先生の言葉を借りて漕ぎたかった少年が、「貸して」と言っている。まだ手放せない。まだ一人では怖い。しかしこの歌の最後に、少年は漕ぎ出す。借りた櫂ではなく、自分の声を櫂として。

私の声よ行って
海を呑み干す千の鳥になれ

櫂 / ヨルシカ

声を放つ。それが千の鳥になる。先生の言葉(=引用)は、もう要らない。自分の声が、推進力になった。

怒りの果てにあったのは、破壊でも諦めでもなく、静かな前進だった。引用を手放し、自分の言葉で、自分の櫂で、夜明けの海へ漕ぎ出す。

suisの声は、この曲で最もシンプルな形に帰着している。技巧ではなく、呼吸。アコースティックギターのアルペジオの上に、ほとんど語りかけるように声が乗る。22曲のうちで最も装飾が少なく、だからこそ最も重い。引き算の極致に到達した声だ。


2曲が解き明かすアルバムの全体像


爆発と静謐の対構造

千鳥と櫂を並べたとき、その対比は音楽を超えてMVの制作体制にまで及んでいる。

2人の異なるスタイルの映像作家を起用したことは、この対比を意図的に設計した証拠だ。森江のCGが持つ精密で外向きなエネルギーと、加藤のドローイングが持つ手描きの親密さ。千鳥が外に向かって叫ぶ曲なら、櫂は内に向かって語りかける曲だ。

しかし対比であると同時に、連続でもある。千鳥の爆発がなければ、櫂の静謐は密度を持たない。21曲分の蓄積を千鳥で一気に解放したからこそ、櫂のシンプルなアコースティックギターが圧倒的な重みを持つ。引き算のために足し算がある。

そして歌詞の身体性に注目してほしい。千鳥は身体を持っている。「腕を振って」「踊ろうぜ」「千鳥足」——身体が動き、揺れ、踊る。一方、櫂は身体を手放す。「幽体離脱」「身体を忘れてしまった」「私が離れた」——身体から魂が解き放たれる。身体で踊った後に、身体を超えていく。千鳥で肉体の頂点を迎え、櫂で精神の頂点へ至る。

一人称、二人称、三人称

千鳥のMVには、ノーチラスのエイミーを思わせる少年、ステージで歌う女性シンガー、ギターを弾く人物が映る。

あるリスナーの言葉が、この構図を見事に言い当てていた。

「春泥棒の男の人、エイミー、鹿男——3人が一人称で見てる景色を、ヨルシカが二人称で届けてくれて、それを三人称の私たちが受け取る」

一人称(物語の中の登場人物)→ 二人称(ヨルシカが「あなた」に届ける)→ 三人称(私たちが受け取る)。

前の記事では「二人称」の4つの層を論じた。物語上の二人称(先生)、創作上の二人称(受け手)、聴取体験の二人称(リスナー)、存在論的な二人称(あなたにとっての「あなた」)。千鳥のMVは、そこにもう一つの層を加える。視点としての人称だ。

物語の登場人物がその世界を一人称で生きている。ヨルシカがそれを音楽として二人称で届ける。そして私たちが三人称として受け取る。しかし——音楽を聴いた瞬間、三人称だった私たちは一人称に変わる。耳に入った音は、自分の体験になるから。ライブツアーの名前が「一人称」であることを、ここで思い出してほしい。

別のリスナーはこう書いた。「ギター弾いてる男性がn-bunaさんに見えるから、歌っている女の人もsuisさんだ!みたいなコメントたくさんあるけど、私からしたらエルマにしか見えないんだよなぁ……ヨルシカって生まれ変わりを大切にしてるところあるから、いっそのことn-bunaさんがエイミーでsuisさんがエルマだったらいいな」。

この考察は飛躍している。しかし、飛躍を許す豊かさがこの作品にはある。物語の登場人物と、その物語を作っている現実の人間の境界が、千鳥のMVの中では溶けている。エイミーの生まれ変わりがヨルシカだとしたら——すべてのヨルシカの物語は、エイミーの「前世」と「現世」を巡る輪廻の物語として読み直せる。そして櫂の歌詞にある「幽体離脱」は、その輪廻の門だ。

このアルバムのどこにも、無駄な1曲はない

千鳥と櫂のMVを見た後に、もう一度アルバムを最初から聴いてみてほしい。

前の記事で、n-bunaの「怒り」について書いた。「必然性のないアルバムは美しくない」。すべての曲が前後の曲との関係の中でしか成立しない——それがn-bunaの言う「必然性のあるアルバム」だと。

この「必然性」が、MVレベルでも証明されている。千鳥のMVに22曲すべての要素が映像として凝縮されているという事実は、楽曲だけでなく映像までもがアルバムの設計の一部であることを示している。1曲を切り出してMVを作ったのではない。22曲をMVに溶かし込んだのだ。

そして櫂のMVは、その総集編の後に来る「余白」だ。引用の凝縮を経て、引用のない静けさへ。すべてを背負った後の、何も持たない軽さ。22曲分の物語を背負った声が、アコースティックギターだけで漕ぎ出す。その軽さと重さの同居が、涙を誘う。

漕ぎ出した先に


千鳥は、過去のすべてを鳥瞰する歌だ。アルバム22曲を映像に凝縮し、ヨルシカの物語の登場人物たちを召喚し、宮沢賢治の病床の詩を生の衝動に反転させ、鹿踊りの儀式で失われたものを供養する。賢治の故郷・新花巻から出発し、砂の海に浮かぶ月の下で歩き出す。赤いシャツの少年は、賢治の詩の「赤いシャッツ」を身にまとっている。振り返るための歌。

櫂は、未来に向けて漕ぎ出す歌だ。引用を手放し、怒りを前進に変え、身体を忘れてあらゆる生命の櫂になり、フェードアウトで終わることで終わりそのものを拒否する。声を千の鳥にして放つ。加藤隆の描線に導かれて、形を持たない存在が、すべてのものに溶けていく。前に進むための歌。

この2曲がアルバムの最後に並んでいることの意味が、今なら分かるだろう。過去を受け入れてからでなければ、未来には漕ぎ出せない。

どちらの曲で泣いたか——その答えは、あなたが今、過去を振り返っている最中なのか、それともすでに漕ぎ出し始めているのかによって、変わるかもしれない。

「海へ」

しかし、この記事で論じてきた2曲の後に、もう1曲がある。

22曲目「海へ」。アルバムの最後を飾るインストゥルメンタルだ。

n-bunaはこの曲について、Apple Musicでこう語っている。「自宅でアコースティックギターを構えて、自然体で録音しました。砂の海を想像しながら、好きなテンポでアルペジオをして、何度目かのテイクをそのまま収録しました」。

自宅で。自然体で。好きなテンポで。 この言葉に注目してほしい。

アルバム全体を通じて、n-bunaは細部まで設計された作品を構築してきた。22曲の曲順、文学的引用の配置、MVの映像設計——すべてが意図的にデザインされている。しかし最後の1曲だけ、彼はその設計を手放した。設計図のない音楽。自然体のアルペジオ。何度目かのテイクをそのまま。引用も設計も手放した先に残ったのは、ギターを弾く身体の動きだけだった。

千鳥→櫂→海へ。この3曲の流れを辿ると、一つの弧が見える。

千鳥:引用を「身体の感覚から選んだ」曲。まだ引用はある。しかし入口が変わった。22曲の凝縮。爆発。MV監督は森江康太。3DCG。

:引用のない楽曲。声を千の鳥にして放つ。身体を忘れる。フェードアウト。MV監督は加藤隆。手描きアニメーション。

海へ:言葉すらない。声がない。引用も歌詞もない。ただギターの音だけが、砂の海を想像しながら鳴っている。MVはない。映像すらない。

引用→引用からの卒業→言葉からの卒業。身体の爆発→身体を忘れる→身体だけが残る。映像の凝縮→映像の流動→映像の不在。

3曲は手放す運動の加速だ。 千鳥で引用の方法を変え、櫂で引用を手放し、海へで言葉そのものを手放す。削ぎ落とすほどに、残るものが純化されていく。

1曲目「早朝、郵便受け」もインストゥルメンタルだった。手紙が届く音。アルバムは「手紙を受け取る」インストで始まり、「海へ漕ぎ出す」インストで終わる。言葉が届く瞬間に始まり、言葉を超えた場所で終わる。

n-bunaが「砂の海を想像しながら」弾いたギターの音が最後に残っていることの意味を、千鳥のMVのラストシーンと重ねてほしい。砂丘を歩く少年の足元に広がっていたあの砂の海。それが22曲目の音になっている。映像の中の風景が、最後に音だけの世界として甦る。

あなたの耳の中で、船はまだ漕がれている。



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参考文献


インタビュー・特集記事

公式

文学参照

  • 宮沢賢治「風がおもてで呼んでゐる」(詩集『疾中』所収、青空文庫

  • 宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」(青空文庫

  • ルネ・マグリット「ゴルコンダ」(1953年)

リスナーの考察・レビュー

  • YouTube「千鳥」「櫂」MVコメント欄より

  • 前記事参考文献に同じ

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