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不労所得という疲れない疎外

※この記事は約7,600字です。

先週は予定がびっしりと詰まっていた。

金曜日は3時間のアルバイトのシフトをこなし、そのままハッカソンのイベントに参加した。土曜日は翌日の試験のために缶詰になって勉強し、夜はライブに参加した。そして日曜日は資格試験だった。

余裕はどこにもなかった。

ハッカソンが終わったのは終電間際だった。会場を出て駅まで歩く間、身体が重かった。頭の芯が少し痺れていて、足の運びがいつもより遅い。

そもそも打ち上げが始まるころから既に眠気は来ていた。ただ一緒に頑張った仲間や企業の方を前にして、眠気を飛ばすことができたのだ。

翌日にはこの勉強が合格か不合格かを決める耐久試験勉強が待っている。それを分かっていながら、帰り道の私は妙に満ち足りていた。むしろ明日のことなど忘れるくらい何か心に満たされるものがあった。

疲れているのに心地いい。これはどういうことなのか。

その日から私はこの重さのことを考え続けている。


ハッカソンの中身は企業が抱える社内課題の解決や知名度の向上を、AIの力で提案するというものだった。

初対面のグループメンバーとともに短い時間でいくつもの工程を通過する。まず企業の方から何が問題になっているのかを直接聞く要件定義。次に簡単なプロトタイプ作り、それがどう解決に繋がるのか、どんな機能を持つのかを伝えるスライド作り。そして発表をする。

終わったあとには打ち上げがあった。

若手社員から中堅、管理職までさまざまな職種と年齢層の方が同じテーブルにいた。ITリテラシーもAIをどこまで知っているかも、人によってばらばらだった。それでも「やっぱりこういうものが必要だよね」という感覚はどの企業の方も少なからず持っている。一方で抵抗感のある年齢層もいる。デジタルネイティブではない世代もいる。可能性と難しさが同じ場所に同居しているのが、話しているうちに肌で伝わってきた。

だからあの活力の説明は簡単に思えた。人と関わったから元気になった。それだけの話ではないか。

実際、世の中の答えもそう言っている。

あるポッドキャストで「人間に唯一残された特権は関係性を作ること」という言葉を聞いたことがある。スクリプトを読み上げるだけの営業電話はAI以下だ、という話の流れだった。

しかもこれは感覚論ではない。データもそう言っている。

南カリフォルニア大学とNokia Bell Labsの研究チームが、512職業・10,131のタスクを分析した。AIに晒されにくいタスクの特徴は、はっきりと出た。「対面での相互作用」「関係の構築」「感情への気づき」を含む仕事である。

答えはもう出ている。人間に残るのは関係性だ。そう言われれば、あの打ち上げの活力とも辻褄が合う。

けれど、この研究が明らかにしたのは、それだけではなかった。

こんな経験はないだろうか。面倒な作業はAIに任せて人間はクリエイティブな仕事に集中すればいい。そう言われて実際にAIを使ってみると、真っ先に肩代わりされるのは資料の構成やアイデア出しのほうで、自分の手元に残るのは事実確認と体裁の調整だったりする。一番おもしろかったはずの部分から先に持っていかれて、後片付けだけが残る。

研究が突きつけたのは、まさにその感覚のほうだった。

AI露出が高いのは「創造性を要求する」「自律性が高い」「幸福感をもたらす」タスクのほうだったのだ。論文はルーチンワークを自動化して人間は創造的な仕事に専念する、という私たちが何度も聞かされてきたナラティブを実証的に不完全だと断じている。AIが奪いにきているのは退屈な仕事ではない。人がやりがいを感じている仕事のほうである。

そしてもうひとつ、私の体験そのものが噛み合わない。

あの夜、心地よかったのは打ち上げの時間だけではなかった。プロトタイプを組んだ時間も、スライドを作った時間も含めて一日全体が心地よかった。それらはまさにAIに晒されている領域そのものである。

人間に残るのは関係性だ。その説明は正しい。正しいのだが、私が感じたあの重さについては、何も言っていない。

AIにできるかできないか。私はその線引きの上に自分の居場所を探そうとして、うまくいかずにいた。線のこちら側に残っているものを数えれば、自分の価値が分かるはずだと思っていたのだ。

だがあの疲労感は線のどちら側にもいなかった。

だから私は線を見るのをやめて疲労のほうを見ることにした。


思えば私は疲れとは減らすべきものだと信じて疑っていなかった。効率化とは疲れを減らすことであり、疲れが減れば人は楽になる。AIはそのために使う。そこを疑う人は、あまりいない。

ところが、疲れを取り除いた先に何が待っているのかを調べた実験がある。

ペンシルベニア州立大学のYidan Yinらが2026年6月にScientific Reportsで発表したものだ。人事や広報、管理職として働く約270人を3つの条件に分け、同じ課題に取り組ませた。自力で作る。AIと協働して作る。AIが生成したものをコピー&ペーストする。

3つ目の条件、つまりAIに丸ごと任せた人たちの結果が興味深い。

課題を終えたあとの楽しさは29パーセント増えていた。楽になったのだから当然といえば当然である。ところが同じ人たちの成果物に対するオーナーシップの感覚は約20パーセント低下していた。仕事の意味と自己効力感も約10パーセント下がっている。さらにそのあと自力で課題をやらせると、出来上がったものへの満足度が21パーセント落ちた。

楽になった。楽しくなった。それなのに意味は減った。

快適さと意味は同じ物差しの上に乗っていない。 片方が増えても、もう片方は増えない。それどころか逆に動くことがある。

私の疲労感はちょうどこの裏返しだった。快適ではない。身体は重い。それなのに意味は満ちている。

ただこの実験は「AIを使うと意味が失われる」とは言っていない。AIと協働した人たちの数値は、自力で作った人たちとほとんど変わらなかったのだ。自分のアイデアを練り上げるためにAIを使うこと、それは何も奪わない。

奪われるのは、自分が関与しなかったときだけである。

問題はAIを使うかどうかではない。自分がそこにいたかどうかだ。


自分がそこにいたかどうか。この基準は、AIにできるかできないかとは何の関係もない。同じ作業でも、丸投げすれば意味は消え、関与すれば残るのだから。

そう考えるとよく耳にするあの言い方が、急に怪しく見えてくる。

AIにできないことこそが、人間の価値である。

この言い方が成り立つには2つのことが同時に言えなければならない。ひとつはAIにできないことならそれは人間の価値である、ということ。もうひとつは人間の価値があるならそれはAIにできないことである、ということ。前者が十分条件で、後者が必要条件だ。

まず十分条件のほうから確かめる。AIにできないことなら、そこに価値があるのか。

AIにできないことなど無数にある。AIは風邪をひけない。二日酔いにもならない。締切の前日に現実逃避して部屋の掃除を始めることもできない。どれもAIにはできない。そして、どれも人間の価値ではない。

「AIにできない」というのは能力の欠如を記述しているにすぎない。そこには価値の証明が一文字も含まれていない。 AIにできないことのリストは、人間の価値のリストではない。それはただの差分表だ。

では必要条件はどうか。人間にとって価値があるなら、それは必ずAIにできないことなのか。

ここでは私の体験がそのまま反例になる。

あの日、私はプロトタイプを組み、スライドを作った。どちらもAIのほうが速く、おそらく上手くやれる。つまりそれは「AIにできること」である。それでも、あの時間には意味があった。

先ほどの実験も同じことを言っていた。AIと協働した人たちのオーナーシップは、手作業の人たちと変わらない。AIを使いながら、意味は成立していたのだ。

10,131のタスクを調べたあの研究も同じ方を向いている。人が創造性や幸福感を覚えているタスクほど、AIに晒されやすかった。人間が価値を感じている領域の大半は、すでに「AIにできること」の中にある。

十分でもない。必要でもない。

「AIにできるかどうか」と「私にとって価値があるかどうか」の間には、論理的な関係が何もない。

この2つは対立してすらいない。対立するためには、同じ土俵に乗っている必要があるからだ。

「AIにできることが増えた」というニュースを聞くたびに自分の取り分が少しずつ削られていくような感じがする。あの感覚には根拠がなかったことになる。

AIがどこまでできるようになろうと、私が何に手間をかけたいかはそのニュースの外側にある。ずっと関係のないものを見て怯えていたのだ。


怯える必要はなかった。そう分かって私は少し安心した。

だがその安心は束の間だった。手間をかけることの意味を疑わせる声を、思わぬところで聞いてしまったのだ。

不労所得についての動画を見た。経済思想家の斎藤幸平が今の経済を「レント資本主義」と呼んでいた。レントとは地代のことである。

GAFAのような巨大プラットフォームはデジタル空間という「土地」を支配している。そこで活動するクリエイターや労働者からマッチング手数料などの名目で利益を吸い上げる。かつての地主が小作人から地代を取るのと構造は変わらない。

真面目に努力して価値を生み出しても、果実の多くはプラットフォーマーに持っていかれる。だから個人の努力による所得の向上にははじめから天井がある。

番組では労働の価値が相対的に落ち続けていることも語られていた。過去20年、労働による実質的な稼ぎは伸び悩んだ。真面目に働けば生涯年収が安定する、という期待はもう成り立たない。頭のいい層ほど企業に雇われて働くことの将来性を疑っている。

そこで出てくるのが若いうちに地代的な稼ぎ方の仕組みを作っておくという戦略である。SNSを使う。AIを使う。仕組みの側に回る。

これを怠慢と呼ぶのはおそらく間違っている。

労働が報われない構造が既にありそのなかで「楽して稼ぐ」を目指すのは格差を回避するためのきわめて合理的な防衛反応である。真面目に働けと説教する人はその説教が誰の得になるのかを一度考えたほうがいい。

ただ番組では懸念も語られていた。この流れが進めば社会全体の労働価値はさらに下がる。AIによるコンテンツの自動生成が広まれば、人間が汗を流す余地はもっと減っていく。国民総レント時代とでも言うべきディストピアがその先にあるのではないか。

ここまで聞いて、私はようやく気づいた。

まったく違う方向から飛んできた2つの声が、同じ結論に着地している。手間をかけるのは損だ。

片方は手間をAIに渡せと言い、もう片方は手間から降りて仕組みの側に回れと言う。どちらも「手間それ自体には価値がない」という前提を共有している。

この2つの声に照らせば、あの金曜の夜の私はどう見ても非合理だった。無給である。3時間のシフトを終えた後である。翌日は試験勉強で缶詰になることが決まっていた。

ただ厳密に言うとまったくの無償だったわけではない。提案がうまくいけば有償の仕事に発展する可能性があると言われてはいた。だから損得の計算も確かに働いていた。

けれど、あの疲労感は有償か無償かという結果の前にもう来ていたのだ。提案が通るかどうか何も分からない帰り道の時点で、既に心地よかった。期待と疲労感では、生まれるタイミングが違う。

ならばあの心地よさはどこから来ていたのだろうか。


「不労所得」という言葉を私はそれまで何となく使っていた。

分解すると、不・労・所得である。労を取り除いた所得。その理想形は自分が何もしていないのに結果だけが入ってくる状態だ。

そう書き出してみて背筋が寒くなった。それはあの実験の3つ目の条件と構造がまったく同じではないか。

AIが生成したものをコピー&ペーストして成果を得ること。仕組みを所有して、労せず果実を得ること。どちらも、自分が関与しないまま結果だけを受け取っている。

ならば帰結も同じはずだ。楽しさは増える。オーナーシップは減る。意味は減る。

不労所得は快適さを最大化しオーナーシップを最小化する。

そして、もっと単純な事実がある。不労所得は疲労感を買えない。 労がないのだから、疲労も生まれない。定義上そうなのだ。あの夜に私が持ち帰ったものをレントは一円分も生産できない。

ここでひとつ繋がったことがある。

レント資本主義を論じる斎藤幸平はマルクスの研究者である。マルクスの中心的な概念のひとつに「疎外」がある。労働者が自分の労働の産物から切り離されてしまうこと。作ったものが自分のものだと感じられなくなること。

ペンシルベニア州立大学が測定した「オーナーシップが20パーセント下がる」というあの数字は、実験室で再現された疎外そのものではないか。

150年以上前に哲学が言葉で指し示したものが2026年に数値になって出てきた。マルクスは工場を見ていた。研究者たちはコピー&ペーストを見ていた。見ているものは違うのに、測っているものは同じである。

だから私は言葉にする上でもあの疲労に名前を付けてみようと思う。

あれはどの通貨にも両替できない疲労だった。能力の向上にも、AIとの差別化にも、市場価値にも、将来の収入にも換金されない。それでも身体に残る。**「換金されない疲労」**と呼ぶことにする。

こうして並べてみると私たちが取りうる態度がきれいに見えてくる。

AIにできないことを探すのは能力の軸で防衛する動きだ。レントの側に回るのは能力の軸で攻勢に出る動きだ。守るか攻めるかの違いはあっても2つは同じ軸の上に立っている。 だから相反しない。そしてどちらも「換金されない疲労」については何ひとつ語らない。

念のために明示しておくが、この疲労は能力の軸を否定しない。効率化していいし、AIを使っていいし、仕組みの側に回ってもいい。私自身、日々そうしている。

ただ効率化で浮いた時間も、レントで入ってくる収入も、「換金されない疲労」の口座には一円も振り込まれない。入金される先が、はじめから別なのだ。


とはいえここで「非効率こそ尊い」と言い出したら、この文章は嘘になる。

疲れればいいというものではない。それは私の身体がよく知っている。

心理学に「努力のパラドックス」という概念がある。Michael Inzlichtらが2018年にまとめたもので、労力は嫌悪すべきコストであると同時に報酬でもある、という。手間をかけたものに、人は意味と愛着を覚える。

ただし、この効果には条件がついていた。目的のない労力、過剰な労力は逆に価値を損なう。

IKEA効果という有名な現象がある。自分で組み立てた家具に専門家が組み立てた同じ家具より高い金額を払ってしまうというものだ。これにも条件があった。労力が完成に辿り着いた場合にだけ効果が出る。 途中で壊してしまったり、完成しなかった場合、効果は消えてしまう。

手間をかけただけでは足りない。やり遂げることが要る。

ハッカソンには締切があり、発表があり、終わりがあった。だからあの疲労は心地よさに変わった。

土曜日に缶詰で勉強したときの疲れは正直に言えば同じようには心地よくなかった。あれは終わりの見えない疲れだったからだと思う。試験の当日まで、どこまでやれば足りるのかが分からない。

疲労には種類がある。

最近は「AI脳疲労」という言葉まで出てきた。AIの出力を監督し続けることで生じる精神的な消耗で通常の燃え尽きとは違う種類のものらしい。頭が鳴っているような感覚が続くと報告されている。

AIを監督して生まれる疲れは不快で自分の手を動かして生まれる疲れは心地いい。同じ「疲れた」なのに、向きが正反対である。

疲労は量ではなく質で読むものだ。


文筆家の土門蘭がポッドキャストでこんなことを話していた。短期的な合理性、つまりコスパを追求していくと長期的には人生が痩せる、と。

そして編集者から言われた言葉だと前置きして、こう続けていた。

人生は高速道路じゃなくて下道。ついでを作る、寄り道をするのが遊び。

これを聞いてから、私はAIのことを少し違う角度で見るようになった。

AIとは摩擦をゼロにする装置である。 そしてレント型の収入とは摩擦をゼロにする経済の仕組みである。どちらも、私たちの人生に高速道路を敷こうとしている。

高速道路は速い。疲れない。ただ通過するだけで身体には何も残らない。

疲労が消えるということは摩擦が消えるということだ。そして摩擦が消えれば自分がどこを通ってきたのかも消える。

別のポッドキャストでこういう話を聞いたことがある。AIを使わずに自分で文章を書いたほうが、圧倒的に内省が進むと。AIに書かせても論理的にまとまったものは出てくる。けれど、気づきは浅いところで止まってしまう。

その理由がふるっていた。

結論が同じだったとしてもプロセスを経ずに言葉が出てしまっているから。

成果物が同じでもプロセスを経たかどうかで別物になる。ペンシルベニア州立大学の実験が数字で示したことを、この人は自分の身体で言い当てていた。

そしてこれはもう個人の心構えの話ではなくなりつつある。ロンドン大学UCLの研究者イヴォンヌ・ロジャースは、生成AIの設計原則として、あえて労力を要する仕組みを組み込むべきだと提案している。適切な困難さを残したほうが学習効果も達成感も上がるからだ。摩擦を残すことは今や設計思想として通用する主張になっている。

誤解のないように書いておく。高速道路は使っていい。私はAIを使うし、効率化もするし、そのほうが速い場面は本当にある。

ただ、全部を高速道路にしてしまうと自分がどこを通ってきたのかが分からなくなる。

金曜の夜、確かに自分の身体は重かった。有償の仕事に発展する可能性はあったけれど、それが決まる前にもう心地よかった。

あの重さは私がその一日をちゃんと通過したという、身体に残った証拠だったのだと思う。

「AIにできないこと」を探すのは自分が何をしたいかをAIに決めさせることだ。

AIに何ができるようになっても、それは私が何に手間をかけたいかを何ひとつ決めない。はじめから関係がないのだから。

とはいえ、私はまだこの重さをうまく扱えていない。

来週もまた予定は詰まっている。そのすべてがあの金曜の夜のような疲れ方をしてくれるわけではないだろう。終わりの見えない疲れもあれば、ただ削られていくだけの疲れもある。見分けがつくようになったとはまだとても言えない。

それでも疲れて帰る夜に、これは何の疲れなのかと考えるようにはなった。

高速道路を全部降りるつもりはない。降りたら生きていけない。

ただどこかに下道へ入る道があると知っているのと、知らないまま走り続けるのとでは、たぶん景色の残り方が違う。

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