【突発企画】短編『ラストキス』
こちら参加させていただきました!
でも夕飯食べながらお題のことを考えていたので、厳密には30分小説ではないです!アウトだったらすみません!
本文
「今度の日曜、お母さんに会いに行くから付いてきて」
冷蔵庫に買ってきた牛乳を詰めながら、会社帰りのハルカが言うから僕は少し驚いた。なんで?とか、どうして?という疑問は色々浮かんだけど、反対する理由は何もない。だから僕は「うん、もちろんだよ」と返して、ハルカのきれいにカールした後ろ髪が揺れるのを黙って眺めた。
「……何時に出る?車を出そうか」
「そうだね……まあお昼過ぎに出ればいいんじゃない」
伺うように僕は尋ねたけど、ハルカは振り返りもしない。素っ気ない答えに、僕はそれ以上の質問をやめた。
結婚して三年が経つ。三年の間で、ハルカがお母さんに会いにいったのは、僕の知る限りでは今回がはじめてだ。そして僕は、お母さんに会ったたことがない。
認知症なのだという。
付き合い始めた頃、「毒親だもん、ボケてるしさ」と彼女が唇を歪めて言っていたのをいまだに覚えているけれど、それ以上のことは知らない。僕たちは結婚式もしなかったし。
日曜日、車に乗り込んだ彼女は無言だった。
彼女の髪は、いつもより念入りにヘアアイロンを巻かれていた。ネイルもいつもより派手なピンク色で、ラメが散っていた。昨日のお風呂のあと、ハルカが無言でネイルを付けていた姿を思い出すと、少し胸がきゅっとした。
老人ホームの個室の中で、彼女の母親はちんまりとベッドに座っていた。
まだ60歳を少し過ぎたぐらいだろうに、もう80歳ぐらいに見えた。にこにこと笑っているのに、どこか抜け落ちたような顔をしていた。
「私が誰だかわかる、ユウコさん」と彼女が尋ねると、彼女の母親は、目を何度かしばたかせて、「うんー?お昼は、もう食べたの?」と視線の定まらなない目で返した。
ハルカは泣き笑いするような顔で「もう食べたよ」と答えた。
それから彼女は、母親相手に色々なことを話した。「私の夫なのよ」と僕を指さすと、お母さんは僕に、道端の電柱を見るような視線をくれて無言だった。
「私、あなたの娘なのよ」
面会時間の最後、意を決したように彼女は言った。お母さんはぼんやりと笑って、「あそう」と今日の天気予報を聞くような顔付きで返した。まるで『娘』という単語をそのままそっくり忘れてしまって、分からないからただ曖昧に笑っている、みたいに。
「そう、娘なのよ」
泣きそうな顔でハルカが言う。強気な彼女の、こんな顔を見ているのはつらかったけど、僕に何が言えるだろう。
お母さんは少し黙った。そうして彼女にはじめて視線を合わせると、仏様のように、にこにこと笑って呟いた。
「……かわいいねえ、あなた。髪とか……爪とか、ねえ。ちゅーしたくなっちゃうねえ」
お母さんはそう言って、アハハーと子供のように笑った。
彼女はお母さんの、骨とシミの浮いた手を取ると、それを唇に押し当てて泣いた。「あらあら、かわいいねえ」と笑うお母さんの細い腕を、ハルカの涙が伝っていた。
面会が終わり、僕たちは老人ホームを出た。
助手席に乗り込めず、彼女は車のドアを開いたまま立ち尽くしていた。僕は彼女の背を抱いて、「また来ればいいよ」と囁いた。
すると彼女はぐいと目元を拭い、遠くを睨みつけてこう吐き捨てた。
「来ないわよ、二度と来ない!」
僕はその滲んだマスカラの下の剣幕に押されて、何も言えなかった。
その夜、ゆっくりと風呂に入った後、僕たちは久しぶりにキスをした。
ハルカの唇は柔らかかった。確かにお母さんの言った通り、ハルカはかわいい女だった。化粧をしていても、してなくても。
「お母さんにあんなキスしたの、はじめてだった」
「……なかなかないよね」と僕が苦し紛れに返すと、彼女はそれには答えず、ただ深い溜息を吐いた。
「……ようやく、他人になれた」
僕は少し悲しくなって、彼女の背を撫でた。
僕たちの最後のキスがどんな風なものになるのか、それが3年度なのか、50年後なのか、僕には何も分からなかった。
