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寓話「玉兎の姫の狗になりたい」どうわ「つきのひめとおおかみ」


それは、名も残らない献身の話。


寓話「玉兎の姫の狗になりたい」


昔々ーー
と言ってしまえば、
それで済む話なのかもしれない。
どこの国の話かも分からず、
誰が最初に語ったのかも残っていない。
冬になるとこんな話をする者がいたという。
ただ月を見るたびに思い出す者がいて、
そのたびに少しずつ形を変えながら、
語り継がれてきた。
それが本当にあったことなのか、
それとも、
誰かの見た夢だったのかは分からない。

それでも月の近い夜になると、
思い出してしまう話だ。

あるいは、
これは私の妄想なのかもしれない。


冬になると雪深くなる、北の果ての地の
小高い山々と、雪原が折り重なる丘陵に、
その城塞はあった。

城の壁は、修復が追い付かないほど崩れ落ちていて、塞の形をなしていない。

壁の内に居る家々も、この冬が越せるかどうかの建付けで、
お世辞にも栄えている城とは言い難かった。

しかし領主の館は立派だった。
その館だけが月の光を浴びているように見えた。

その館の姫は夜になると、月を見上げる癖があった。
理由があったわけではない。
ただそうしているときだけ、
心が静かだった。

白い衣をまとい何を思うでもなく、
しばらく月を見ていた。
月は高く冬の空気は澄んでいて、
その光は姫の影を薄くした。

その夜も姫は静かに立っていた。
しばらくして、
雪を踏む音が遠くから聞こえた。
姫は振り向き小さく笑った。

「……また来たのね。」

その声には
驚きも恐れもなかった。
ただそういう夜なのだと、
受け入れるような響きだけがあった。
闇の中から
いくつかの影が現れた。
六つか、七つ。
痩せた体で息は白く、
足取りは重い。

その中にまだ小さな影が二つ混じっていた。
姫は何も言わず、
そばに置いていた包みをほどいた。
それがいつからのことだったのか、
どれほど続いていたのかを、
知る者はいない。
ただ冬が深くなり、
子の影が細くなったころ、
彼らは来たという。

姫が包みに入れた食べ物を地に置くと、
匂いが夜に広がった。
まず小さな影が二つ、
ためらいがちに近づいた。
それを見て、
他の狼たちは動かなかった。

子が食べ、
次に雌が口をつけ、
年を経たものが続いた。

群れの長は最後まで動かず、
狼達に話し掛ける姫の声に耳を欹てながら、
ただ月を見ていた。

そして最後に、
群れの長が残りを見る。
数は誰も数えなかった。
足りているかどうかも言葉にはしなかった。
長はその順を崩さなかった。

ただ姫の声だけはよく聞いていた。
だが姫の表情はよくわからなかった。
いつも見ている月と同じたと感じていた

その気持ちが何であるかを、
長自身はもう知っていた。

やがて、
狼たちは少し離れた雪の上に身を伏せた。
呼吸が揃い、
闇に溶けるように眠った。
ただ一匹長だけが、
再び姫の元へ歩きだした。

姫はまだ月を見上げていた。

風が止み、
雪の音が消えた。
長はその背から
目を離さなかった。
月の光が雲を抜けたとき、
そこに人の姿はなかった。
白い兎が一つ、
雪の上にいた。

その間、音はなかった。

ただ、夜の冷えが一段深くなった。
長は前足を動かせなかった。
見てしまったことを
理解するより早く。

館にも、
群れの傍にも、
置いておけなかった。

兎は長を見て身をすくめた。
逃げようとして足を滑らせた。
長は牙を立てず、
そっとその体をくわえた。
兎の体は軽く震えていたが、
逃げることはしなかった。

長はそのまま背を向け、
山のほうへ歩き出した。
群れの眠りを起こさぬよう、
音を立てず、月の影を選んで進んだ。

そして、そのまま山へ消えた。


戸は閉じたままだった。
風に揺れるものも、倒れたものもない。
炉の灰は冷えて、
水を汲む桶だけが、そのまま置かれている。
月は昇って沈み、
それでも館の中に声は戻らなかった。

子供たちはもう丸くならなかった。
眠る前に鼻先を地面につけて匂いを探す。
雌は歩く距離が少し長くなり、
年長の狼は何度も振り返った。
群れは静かだった。
吠える声だけが減っていた。

群れはあの館の前で立ち止まった。
匂いは残っていた。
だがそれだけだった。
戸の向こうに動く気配はなく、
月を見上げる影もなかった。
子供の一匹が短く鳴いた。

館の戸は、最後まで開かなかった。
月だけが、何度もその上を通った。

群れは山へ向かった。
子供の歩幅に合わせて足を止めながら。
谷を越え吠える声は減っていった。
月の近い場所で、
群れは立ち止まった。


岩陰に割れた木の実の殻が溜まっていった。
昨日の殻の上に、
今日の殻。
雪の上には白い兎と、
何も口にしていない狗がいた。

夜が始まり薄暗くなると
狗はひとり森へ入っていき、
月の光が届かぬところで
木の実を拾い枝を折り、
それを口にくわえて戻ってきた。
兎はそれを見てただ静かに食べた。
狗はそれを見ていたが、
何も食べなかった。
木の実は狗の腹を満たすものではなかった。
それでも兎から目を離さなかった。

夜が更けるころ、
兎はまた月のほうを向き、
狗は何も食べぬままそこにいた。
毛並みは伏せ、
肋は前よりも浮いていた。

なぜ守るのか。

狗は答えを持たなかった。
兎は何も知らない。
それでも夜になると寄ってきた。
もう逃げることはなかった。
並んで大きく近い月を見ていた。


夜が深くなり、月明かりが
草陰からいくつもの影を照らした。
六つか、七つ。
痩せた背の狼達の群れは、
足取りが重かった。
腹をすかせ、ときおり小さく鳴いた。
白い兎はそれを知らず、
ただ雪の上で動かずにいた。
狼たちはそれを食べ物として見た。
それ以上でも、それ以下でもなかった。

狗は一歩前に出た。
低く吼え、
道をふさいだ。
群れは立ち止まり、
理解できぬまま歯を鳴らした。
子の狼が、
こらえきれず一歩踏み出したとき、
狗は牙を見せた。
それは威しであり罰ではなかった。

狗は子狼を噛まなかった。
ただそれ以上進ませなかった。
雌狼は狗の方を見た。
それはかつて共にいた長ではなくなっていた。
年長の狼は、何かを諦めたかの様に、狗を見ていた。
諦めたのはきっと兎の事ではないだろう。
しばらくして、
群れは月を背に山を下りていった。
誰も山の奥を見ようとはしなかった。

白い兎は何も知らぬまま、まだ月を見ていた。


月が雲に隠れ、森は一瞬音を失った。
兎は動かなかった。
耳も背も影の中に溶けたまま、
やがて雲が流れ月明かりが戻った。
そこに兎はいなかった。
白い衣の裾が地に触れて揺れていた。
姫は息をしていた。
ただそれが確かめられるまで、
狗は近づけなかった。

匂いが違っていた。
森のものではなく、人のものでもなく、
そのどちらでもない。
姫は月を見上げ、
それから足元を見た。

「……あなたは。」

名前は呼ばれなかった。
声は兎のものではなかった。
狗は一歩だけ下がった。
前に出る理由はもうなかった。
姫の視線が一瞬だけこちらをかすめた。
何かを知っているようで、
何も思い出せない目だった。

狗は振り返らなかった。
群れにも。
姫にも。

山の上で、
ただ月だけが近かった。


それから狗は山に消えた。
誰もその姿を見てはいない。
名を呼ぶ者も。

けれど新月の夜、
月のない空の下で、
城の外れから声を聞いたという者がいる。

高くもなく。
長くもなく。
ただ一つ、
低く。

それが何の声だったのか、
誰も知らない。
それが何を想って鳴いたのかも、
語られていない。

ただ、
あの姫は今も、
夜になると月を見上げるという。
白い兎であった頃のことは覚えていない。
山に消えた狗のことも、
思い出すことはない。

それでも、
月のない夜に聞こえるその声を。

兎の名で呼ぶ者はいない。

――この話が本当にあったことかどうかも。

私は知らない。

ただそうして語り継がれてきただけだ。


あるいは、
これは私の妄想なのかもしれない。


どうわ「つきのひめとおおかみ」


むかしむかしあるところに

ゆきのふかいきたのくにがありました

そのくにのやまのうえに

ふるいおしろがありました

かべはこわれかけていましたが

おしろのいちばんおくに

つきのひかりをあびる

きれいなおやしきがありました


そこにはつきのひめが

すんでいました

ひめはまいばん

しろいころもをきて

しずかにそらをみあげました

りゆうはありません

ただつきをみていると

こころがしずかになったのです


あるふゆのよる

ゆきをふむおとが

きこえてきました

あらわれたのは

やせたおおかみたちでした

ちいさなこどもも

まじっていました

ひめはおどろきません

にっこりわらって

たべものをゆきのうえに

そっとおきました


こどもがさきにたべ

つぎにおとながたべ

さいごにむれのおさが

のこりをたべました

おおかみのおさは

いつもいちばんさいごでした

そしてひめのこえを

だまってきいていました


あるよるつきがいちだんと

あかるくひかったとき

ひめのすがたは

きえていました

そこにはしろいうさぎが

ぽつんとたっていました


おさははっとしました

けれどきばをたてず

そっとうさぎをくわえました

そしてむれをおこさないように

やまのおくへあるいていきました


それからおさはまいばん

つきのひかりのとどかない

もりのなかへいき

きのみをひろい

うさぎのもとへもどりました

じぶんはなにもたべません

ただうさぎをまもりました

やせてもこえがでなくなっても

うさぎのそばを

はなれませんでした


あるよるおおかみのむれが

やってきました

おなかをすかせ

うさぎをみつめました

おさはいっぽまえにでて

みちをふさぎました

ほえましたが

かみつきません

こどものおおかみが

いっぽちかづくと

おさはただそれいじょう

すすめさせませんでした

むれはしずかに

やまをおりました


おさは

もう

おさではなくなりました

それでも

だれよりつよく

だれよりやさしく

そこにたっていました


やがて

つきがくもにかくれ

つぎにあらわれたとき

そこにはまたひめが

たっていました

しろいころもをきて

つきをみあげています


ひめはおさをみました

でもなにもおもいだせません

おさはいちどだけ

つきをみあげ

そしてやまのおくへ

きえていきました


それからもひめは

まいばんつきをみあげます

つきのないよる

ときどき

どこからかひくいこえが

きこえるといいます

それがだれのこえか

しるものはいません


ただ

つきだけが

しっているのです

#創作大賞2026

#オールカテゴリー部門

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