体というヒューマンドラマ④ 「ノるかソるか」 | 『どもる体』 伊藤亜紗
さてさて。
ひさびさの『どもる体』。
第4回目です。
本書は、「しゃべる」という行為に「吃音」という症状が加わった際、それまで意図せずとも出来ていた(オートマチックに機能していた)「しゃべる」という行為が自分の意思ではどうにもならずに制御不能になってしまう、その原因について、当事者の実体験や専門的な解説なども交えながら多角的で丁寧な視点をもって紐解いています。
吃音がテーマの本、ではありますが、そうした症状の有無に関わらず「ことば」の不思議に興味のある方には、あらたな視点を授けてくれるはずです。
「ことば」には、活字としての平面世界の静的なものと、状況や感情など+α のものも加わり立体的な時間や空間の中で交わされる動的なもの。
大きく分けると、そのふたつがあると思います。
本書では後者の方。
体をつかって「ことば」を「しゃべる」ということは、何かを誰かに伝えるために “今ここ” で起きている体の運動というリアルな状況や感情があります。
しかしその「しゃべる」時に、なぜだか分からないけどスムーズにいかないことが起きてしまう。
これをミスではなく、体のエラーととらえています。
なぜエラーが起こってしまうのか。
しゃべりたい伝えたいという意図を持つ心と、オートマチックなコントロールが外れて制御不能になってしまう体。
体というものはとてもドラマチックだし、「しゃべる」という行為はとっても繊細でつかみどころがない行為なんだな、ということを、本書を読み進めることであらためて知ることが出来ます。
心と体は別物なんだよ、と。
で、今回は、本書を読むにあたり一番興味があった謎。
「なぜ歌うときはどもらないのか」ということを深掘りしている第5章を読み解いていきたいと思います。
まずは、章の冒頭。
「歌うときはなぜかどもらないんです」。
当事者たちが口をそろえて言う、「吃音の不思議」のひとつです。人によって症状の個人差がきわめて大きい吃音ですが、この点に関してはみんなの意見がぴたりと一致する。私がこれまでお会いした当事者も、一〇〇パーセントの確率でイエスと答えてくれました。
(中略)
歌うときにはどもらない。なぜそれが不思議なのかといえば、彼らは別に「どもらないようにしよう」と意識しているわけではないからです。ただ歌を歌っているだけなのに、そのあいだだけは吃音から解放される。うまくやろうと頑張るとかえって難発になってしまったりする一方で、気にせず歌っているときにはうまくいく。どもる体との付き合いは、本当に一筋縄ではいきません。
― なぜ歌うときはどもらないのか
頑張るとうまくいかず、気にしないときにはうまくいく。
なんだか、人生哲学みたいですね。
(しみじみ… )
えー、先に進みます。
続けて、「吃音の不思議」にはこんなパターンもあるようです。
もうひとつ、どもりが出にくい状況として「演技」があります。これは歌ほどの満場一致を見るわけではありませんが、かなりの割合で、何らかの役柄を演じているときにはどもらない、という当事者がいるのです。
(中略)
「人前で話す」というプレッシャーのかかる状況でかえってどもらない当事者がいるのは、この「演技」の力が大きいようです。
リズムと演技。どもりが出にくいこの二つのシチュエーションに共通しているのは、それに没頭しているあいだ、彼らが「ノっている」ということです。「ノる」とは単にハイテンションになることではありません。「ノる」は、意図と体のあいだに生まれる独特の関係のことであり、この関係が運動をたやすくするのです。
―なぜ歌うときはどもらないのか
なるほど。
「リズム」と「演技」か。
ではその「没頭」して「ノっている」状況で起こる「意図と体の間に生まれる独特の関係」とは、一体どんな関係なんでしょう。
ひとつの象徴的な例として、NHK・Eテレで2025年3月まで放送されていた障害者情報バラエティー「バラバラ」で、どもりがリズムによって解消されたシーンが紹介されています。
番組には、第2章で登場いただいた八木智大さんも出演していました。
(中略)
話題を振られた八木さんは、答えようとしますが、10秒弱にわたる吃音症状が出ます。第2章で分析したような、複数の音を行き来するような「さぐる感」のある連発です。あとから状況をたずねたところ、答える内容にも迷いがあって、「それでもとりあえず何かを言おうとしていたから」どもりが出たと言います。
ところが、ここで不思議なことが起こります。
スタジオには、同じく吃音当事者の落語家・桂文福さんがゲストとして来ていました。その文福さんが、吃音症状の出ている八木さんに向かって、「タン・タン・タン」と規則的に舌を打ち始めたのです。
商売道具の扇子を横に振りながら、口拍子をとっていく文福さん。すると、まるで金縛りが解けたような変化が起きたのです。数秒前の連発症状はどこへやら、なんと八木さんが別人のようにしゃべり始めたではありませんか。まさに「魔法」と言いたくなるような変化に、スタジオにいた人たちも驚きの声をあげていました。
― なぜ歌うときはどもらないのか
衝撃のバラバラ、ラストシーン
この変化。
八木さんの吃音症状に何が起こったのでしょう。
そのときの八木さんのしゃべり方はこうでした。「なか・なか・こと・ばが・出に・くい・けれ・ど」。
つまり文福さんの、「タン・タン・タン」に合わせて、ニ音ずつのリズムをつけてしゃべっていたのです。
(中略)
このことからまず分かるのは、多くの吃音当事者が「歌うとどもらない」と言うとき、必要なのは歌詞でもメロディでもなく、リズムだということです。
(中略)
歌を構成する要素はいろいろありますが、そのなかでまさにリズムが、どもる体に作用する力を持っているのです。
― なぜ歌うときはどもらないのか
「なか・なか・こと・ばが・出に・くい・けれ・ど」
リズムかぁ。
なんとなく、メロディに「ノる」ことでどもりがなくなるのかと勝手に想像していましたが、立役者はリズムだったのですね。
「パン・パン」というリズムにのせてお題を答えていくことでお馴染みの山手線ゲームなども、当事者の多くが吃音が出ないと証言されているそうです。
このリズムの活用は、臨床の現場でも取り入れられている療法のようです。
こうした拍子に合わせて話すやり方は、臨床の現場でも、「メトロノーム法」として取り入れられています。つまり、メトロノームの「カチ・カチ・カチ」という音に合わせてゆっくりしゃべる訓練をすることで、吃音の軽減につなげようという方法です。
― なぜ歌うときはどもらないのか
「なか・なか・こと・ばが・出に・くい・けれ・ど」
しかしこの言語療法も、万能、ではないそうです。
うーむ。
「吃音」という体のエラーが起きているとき、「しゃべる」ためのオートマチックな制御機能は働いていない状態。
ある意味、野放しなんですね。
続く解説の中で、ドイツの哲学者ルートヴィヒ・クラーゲスが紹介されています。
彼は100年近く前の著書『リズムの本質』(1923)で、星の運行、波の運動、植物の生長、動物の身体運動から、生活、音楽、色彩、詩などなど、あらゆるリズムについの謎を「抑制からの解放」という視点で解き明かそうとされた方です。
リズムにノッている状態は、しばしば「抑制の解放」として語られます。
(中略)
たしかにリズムは、日頃私たちの行動にブレーキをかけているもの、たとえば「自意識」や「社会性」をとっぱらう力があります。「恥ずかしいな」と思っていてはリズムに身を任せることはできませんし、逆に歌ったり踊ったりすることで日頃のストレスが解消される場合もあるでしょう。リフレッシュして「生き返った」ような気分になるのは、クラーゲスの言うように「生命そのものが解放された」証拠のようにも思えます。
― なぜ歌うときはどもらないのか
リズムは解放? それとも規則?
しかし伊藤亜紗さんは、リズムがおよぼす「抑制からの解放」が吃音症状を改善するという視点について「本当にそうでしょうか」と疑問を投げかけます。
つまり連発においては、体はむしろ解放されすぎている。解放されすぎた結果、制御しきれない体のどもりが、そのままあらわになっているわけです。もしリズムが単純な「解放」であるとしたら、そもそも「過剰解放」である連発の体を救うことなど、とうていできないでしょう。
実際、先のバリバラの例を見ても、文福さんの口拍子がやっていることは、八木さんの体を「解放」するというよりは、むしろ「整えること」です。八木さんのしゃべりは、あちこち彷徨うように「手さぐり」していました。そこに「タン・タン・タン」という拍子が来ると、この「タン・タン・タン」を基準として、それに合わせてしゃべるようになる。その結果、八木さんのしゃべりが規則を獲得している。実際の様子を見ても、リズムの力が、解放ではなく秩序、自由ではなく規則にあることがよく分かります。
― なぜ歌うときはどもらないのか
リズムは解放? それとも規則?
吃音症状においては、「解放や自由」が「しゃべる」という体の運動に対して制御不能という状態を引き起こしてしまう。
そして、制御不能になった体にリズムという刺激を外側から与えることで「秩序」が生まれ、それによって体は「規則」性を取り戻すんですね。
体が型にはまることで、「はっ」と我にかえる感じなんでしょうか。
ロシアの文学者ミハイル・バフチンは、リズムを「抑制からの解放」としたクラーゲスと正反対の論を唱える著作『作者と主人公』の中で「生はリズムでは表現されず、リズムを恥じる」と定義したそうです。
リズムを恥じる、とはなんとも衝撃的な言い方ですが、その背後にはクラーゲスとはまったく異なる「生」のとらえ方があります。クラーゲスの「生命」は調和に満ちたものです。一方でバフチンが念頭におく「生」は、むき出しの現実そのもの、あらゆる可能性に開かれたオープンエンドの、しかしそれゆえシビアなものです。
一瞬先にはどうなるか分からない、そのような不確定要素を含んだものが生であるならば、それはたしかにリズムの規則性とは相容れないものとなるでしょう。
― なぜ歌うときはどもらないのか
リズムは解放? それとも規則?
「生は、むき出しの現実」か…。
なんだか染みるなぁ。
このあと第5章では、さらにリズムと体の関係についての深淵をのぞいていきます。
ひょっとしたら、リズムが「秩序と規則」を生むことって、信頼できる相棒を得ることで体が新しい自由を得る、というようなことなのかもしれません。
体って、奥深い。
いや〜、俄然面白くなってきました。
が、長くなってしまったので続きはまた次の機会に。
伊藤亜紗『どもる体』医学書院(2018)
