残夢【第一章】⑧教室
山下の運転する車は静かに署に戻った。
刑事課に入る手前で嶌村に「ちょっといいですか」と声をかけられ、コートを置いて二人で喫煙所に向かう。
嶌村は俺より年は下だが警部補の昇進試験に今年合格した。来春にはどこかの係長にでもなるかもしれない。冷静で的確な分析と指示ができる嶌村はリーダーにも向いているうえに家族サービスも欠かさないという。
到底、俺には真似できない。
娘が産まれた頃は俺も地方公務員ながら可能なところまでは出世したいと考えたが、忙しい署にいては試験勉強もままならなかった。鳩巻署ならば勉強の時間はあるが、家族がいない今となっては出世に何の意味があるのか分からない。
目の前の諍いや事件をひとつひとつ足を使って片付けていくだけで十分だ。
嶌村は煙草を吸わないはずと思いながら中に入り、換気装置の前に立ってから自分の煙草がコートのポケットの中だったことに気が付いた。しまった。
そのタイミングで嶌村が自分の一本を取り出して俺に差し出す。
「近堂が多少の雑談に応じるようになりました」
俺はありがたく受け取る。
「それは良かった。それで」
「まあ、事件に関することは全然なんですが、ふと思い出して」
「何を」
「ケンさんのプライベートなことで申し訳ないですが」
最初の煙をふかしてから嶌村を見る。
「言ってくれ」
「娘さん、たしか書道を習ってましたよね?」
「なんだ。何の話かと思ったよ」
思わず笑みがこぼれた。俺が離婚したからといって家族の話がタブーなわけではない。こんなところにまで呼び出さなくてもいいのに。
嶌村の子供にも習わせたいがオススメはあるかという相談だろうか。残念ながらそれには答えられそうにない。
娘は小学校に上がっても普段の字は読めないほど汚く、勉強はどの教科も出来なかったし運動も誰の血を引いたのか、さっぱりだった。
ところが小学校で習う学年になる前からなぜか書道に興味を持ったらしく確かに書道教室に通っていた。筆が好きだったようだ。離婚後に何かの賞を取ったと写真が送られてきて、酔った勢いで嶌村に自慢したこともあったかもしれない。
娘は今もきっと頑張っているが、それは俺の知らない場所でだ。
「ああ、おそらく今も続けていると思う」と肯定すると嶌村は話を続けた。
「近堂は二年前まで自宅で書道教室をやっていました」
なるほど近堂の話。そういうことか。
「もちろん知っている」
俺はそう言って煙を勢いよく吐き出した。
「すみません。ケンさんと近堂との接点は山下が調べてましたがコソコソすることもないと思いまして。直接ケンさんに聞いた方が早いと思ったんです」
「気を使わせてすまない。だが娘が通っていたのは徒歩で行ける教室だった。ええっとご近所の、何て名前だったか。近堂とは関係ない」
「はい。ただ、当時の近堂は単発の講師も何度か引き受けたようで。前崎市の文化センターでイベントをすることもあったようです。子供に書道の基礎を楽しく教えるイベント」
俺は煙を吐き出し、嶌村を見た。
俺は嶌村が「はい」と返答したことが気に食わなかった。
嶌村は俺の元家族に会ったこともない。居酒屋で昔の写真を見せた程度だ。それなのに「そうですか」ではなく「はい」か。
近堂と俺の関係を調べるにあたり元妻や娘の事を調べ、近所の書道教室に通っていたことも知っていたに違いない。俺が酔って漏らした訳ではなく。
「娘さんが、そのようなイベントに参加したことがあるとか」
「仮にそうとして、なぜ俺と繋がる」
「え?」
嶌村は意外そうな顔をしてから慌てて続けた。
「前崎市なら以前住んでいた場所から車で参加できなくもないですよね。たとえば文化センターに車で送り迎えしたりしたことないですか」
「ない」
俺は即答した。考える必要もなかった。娘の習い事の送り迎えなど一度もしていない。
「分かりました。失礼しました」
嶌村は軽く頭を下げた。
「嶌村は子供の習い事の送り迎えなんてするのか」
「え? ああ。はい。たまにですけど野球の練習試合とか、合宿とか」
「そうか」
俺は装置に吸い込まれていく煙を見つめた。
「習い事やスポーツをやっている家庭がデフォルトですからね。ケンさんのところは女の子ですけど、野球チームに所属している子の父親が全く顔を出さないってわけにはいかないんですよ。ハハ」
嶌村は言い訳するように言った。気を使ってくれているのか。
「藤岡なんてもっと大変そうですよ。フルタイムの母親は両親と同居じゃないと無理ですよね。休みの日は娘さんと一緒に英会話教室に通っているとか。送迎じゃなくて、一緒に教わっているって。ほら、遊んでやる時間が少ないなら一緒に習ってしまえって」
「藤岡らしいな」
隣の芝生が青いのには理由がある。ちゃんと目を配って手入れをしているんだ。俺は深く煙草を吸った。
「近堂は、子供には人気があったようです」
ゆっくり吸い込まれる煙から目を離して嶌村の言葉の続きを待った。
「ケンさんの娘さんとイベントで会って会話を交わした可能性も考えました。お子さんから話を聞いてケンさんに会ってみたくなったとか。すみません、忘れてください」
嶌村は火のついていない煙草を弄びながら再び思考を巡らせるように天井を見つめて考えを吐く。
「近堂の交友関係が全くでてこなくて。母親が亡くなって書道教室を閉じてからは余計に人付き合いが悪く、近隣住民ともろくに顔を合わせないとかで。マル害との関係も相変わらず、全く」
被害者も近堂を知らないと言うのだから通り魔的犯行として調べを進めれば良い。だが困ったことに「俺に会いたくて」などと動機めいた言葉を発したものだから、こちらとしてもその線を無視する訳にもいかないのだろう。
近堂が書道教室以外に人付き合いが無いとしたら、俺の娘からの繋がりを考えるのも分からないではない。
俺は指先に力を込めて煙草を潰した。
「何年前の何月に前崎でイベントを開催したのか分かったら教えてくれ。念のため聞いておくよ」
そう告げて喫煙室の扉を開けた。
「分かりました」
嶌村の指にあった煙草は結局、火を点けられることもなくケースに戻された。
⑨「連鎖」へつづく ▶
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