夏休みの美術室
夏休みも後半の午後。美術部長の小森菜緒は、スケッチブックを取りに学校へやってきた。
吹奏楽部や演劇部とは違い、美術部は夏休み中の活動はない。自由課題で一枚絵を提出するように言われていたが、それも希望者だけでよかった。
上履きに履き替えて廊下を歩き、職員室のドアをノックする。入口を入ってすぐ横のパネルには美術室の鍵はかかっていなかった。菜緒は不思議に思いつつも、美術室へ行ってみることにした。
窓から差し込む日差しは、西日というにはまだ少しだけ強い。別棟の音楽室の方から吹奏楽部の音が聞こえてくる。
三階の美術室の前に立ち、菜緒は引き戸のガラス窓から中を覗いた。蛍光灯の下、白いワイシャツの男子生徒の人影が見えた。
菜緒は引き戸をそっと開けて中に入った。カラカラと小さな音が鳴る。男子生徒は背中を向けて椅子に座ったまま、スケッチブックに鉛筆を走らせている。シャッシャッという音が聞こえる。
菜緒は背後に立ってスケッチブックを覗いた。そこには菜緒たちも普段使うデッサン用のオブジェが描かれていた。
形がどこも歪んでいない。黒しかないのに、光まで描かれている。鉛筆一本でここまでできる人がいるのか、と菜緒は息を呑んだ。
菜緒の気配に気づいたのか、男子生徒はゆっくりと振り向いた。菜緒はその顔に見覚えがあった。成績優秀者でよく名前が張り出されている子だ。
「特進クラスの…、篠塚君だっけ。美術部じゃないよね。ここで何してるの?」
篠塚君はふうと息を吐くと、鉛筆とスケッチブックを机に置いた。
「美術の鈴木先生に、夏休み中はこの教室、好きに使っていいって言われて。どうせ誰も来ないからって」
篠塚君は菜緒の表情を見ながら言葉を続ける。
「俺、選択科目、美術なんだけどさ。鈴木先生が授業で声かけてきて。よかったら時々描きに来いよって」
菜緒は何を返せばいいのか言葉に詰まった。顧問の鈴木先生は、菜緒を含め部員たちにそんな声かけをすることはなかった。
菜緒が黙っているのを見て、篠塚君は言う。
「だから夏期講習の後とか、たまに来てるんだ。ねえ、君って、美術部の部長の小森さんでしょ」
「ああ…うん。そう」
菜緒には自分の相槌が他人の声のように聞こえた。続きを待っている様子の篠塚君に、菜緒は言葉を続けた。
「部長って言っても、連絡係みたいなもんだけど。…篠塚くん、すごく上手だね、絵」
篠塚君は眉をぴくりと動かすと、自分のスケッチブックを見下ろしてため息をついた。
「いや、こんなの全然正確じゃない。描いててイライラする。手がうまく動かないから」
菜緒は驚いて篠塚君の顔を見つめた。篠塚君は低い声で言う。
「鈴木先生がたくさん描けばできるようになるって言うから、描いてみてるけど」
「…ふうん」
菜緒はそれだけ搾り出すと、篠塚君のデッサンに目を落とした。二人はしばらく黙ってスケッチブックを見ていたが、篠塚君がふと顔を上げた。
「てか、小森さんって、あの淡い色の絵描いたよね、こないだまでそこに貼ってあったやつ」
「ああ…」
鈴木先生は部員の絵を交替で美術室に飾る。菜緒は自分なりに工夫した、光をテーマにした柔らかい色調の絵を提出したのだった。
篠塚君は菜緒の顔を見上げ、真剣な表情で言う。
「俺、小森さんの絵の方がすごいと思うけど。世界がああいうふうに見えてるんだろ?ちょっと羨ましいよ」
「え…」
菜緒は耳が熱くなっていくのを感じた。ぽつぽつと、言葉を選びながら声に出す。
「世界があんなふうに見えてるわけじゃないけど…ああだったらいいなって思ってる…かも」
篠塚君はうれしそうに頷く。
「それだよ、そういうとこ!」
「………ありがと」
菜緒が小さく呟くように言うと、篠塚君は満足そうに笑った。
校内放送のチャイムが鳴って、二人は同時に窓の方を見た。水色の空の端はうっすらとオレンジ色に染まり始め、白い雲が薄く浮いている。
菜緒は思い出したように教室の奥へと歩き、棚から自分のスケッチブックを取り出した。篠塚君は机の上のスケッチブックをめくり、白いページを開いた。
「じゃあ、私、帰るね」
菜緒が声をかけると、篠塚君は「うん」と答え、また鉛筆を動かし始めた。
「あ、鍵…」
言いかけた菜緒に、篠塚君は机の上の鍵を指差して笑う。
「わかってる。職員室のパネル。ちゃんとかけとく」
「…よろしく」
菜緒は教室の外に出ると、引き戸をカラカラと閉めた。ガラス窓から覗くと、篠塚君は背中を向けて絵を描き続けている。菜緒は階段へと歩き出した。廊下に落ちる影は、来た時よりも長く伸びていた。
#シロクマ文芸部 様 「#夏休み」
こちらの企画に参加させていただきました🌻
