東海道五十七次 徒歩の旅③神奈川宿~平塚宿
こんにちは。26歳女です。
2024年11月から12月に、18日間かけて東海道五十七次を歩きました。
この記事では、東海道五十七次を歩いた記録を書いていこうと思いますので、これから歩く人にとって参考になればと思います。
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今回の内容
今回は出発して2日目に歩いた神奈川宿~平塚宿について書きます。
道中のエピソードを織り交ぜながら各宿場も書いていきますが、私は観光が目的ではなかったため、そこまで細かく記載はできません。

神奈川宿出発
2024年11月26日(火)。天気は晴れ。
この日は朝7時半に出発しました。
前日に泊まった宿はこちら↓
学生時代は横浜にある大学に通っていたため、割とスタート時はなじみのある道を歩きました。




↑天王町の駅を突っ切ります




↑立派な本陣跡。
宿場には、大名を中心とする偉い人が宿泊をする「本陣」や「脇本陣」、一般人が宿泊をする旅籠屋が存在していました。その他にも、休憩をする茶屋や、法令を周知するための高札場、見張りがいる見附などがありました。
上記の施設は、大体の宿場を通ると、その施設跡や説明書きがあります。



↑権田坂。
この権田坂は、旅人に坂の名前を尋ねられた老人が、自分の名前を聞かれたのだと勘違いをして「権田」と答えたことに由来をしています。
現代は整備をされているため、横浜によくある急な坂という感じでしたが、昔はそうではなかったため、この近くに、権田坂で行き倒れとなった旅人や馬を投げ込んだ塚跡があります。



↑昔、旅人向けのお茶屋さんが並んでいて、焼餅が売られていたため、焼餅坂と名付けられたそうです。横浜の戸塚を描く浮世絵には、坂や焼餅の絵がよく登場してくるとのこと。(確かに横浜は坂が多いもんな…)
ここも今は何の変哲もない、横浜の坂という感じです。


↑こちらは品濃一里塚。
「一里塚」というのも、街道歩きをするなら必ず覚えておくべきキーワードです。
1601年に東海道が整備されて以降、人や物資の行き来が盛んになっていきましたが、駄賃銭があいまいになっていました。
そこで、1604年に徳川幕府は、日本橋を起点として一里(約4km)ごとに、約9メートル四方の塚を作りました。この塚は荷物や人を運ぶ際に距離の目安となっただけでなく、エノキや松の木が植えられたため、夏は木陰を作り、冬は冷たい風を遮る旅人の休憩場所の役割にもなりました。
昔は道の両側に設置をされていましたが、道路や町の開発に伴って取り払われ、現在は片方のみ存在をしているところが多いです。また、そもそも塚が残っているところも少ない状況のため、ほぼ当時の形で残っているこの品濃一里塚は、県の史跡に指定をされています。
ここでたくさんの旅人が休んでいたと思うと、なんともエモい気持ちになる…。


↑戸塚駅を渡ります。



↑藤沢宿まで来ました

↑藤沢宿の高札場。

↑無料の休憩所がありました。東海道には、観光客向けにこういった無料の休憩所を開放しているところがあるので、とてもありがたいです。今回は先を急いでいたため、立ち寄っていません。

↑馬入一里塚。
相模川には現在、「馬入橋」という橋がかけられているのですが、昔、源頼朝がこの橋を渡った際に、義経の亡霊が現れ、それに驚いた馬が暴れ溺死をしたことから、橋を作るのは不吉とされて、長年舟渡が行われていた場所です。
本日のお宿
この日は、「ホテルリブマックスBUDET平塚駅」というところに宿泊。
料金は4537円。
ユニットバスですが、湯舟があるため、着いてすぐにお湯をためて足湯をし、体を温め、21時ごろには就寝をしました。
今回の旅のホテル事情ですが、箱根峠越えが心配だったため、まずは三島までホテルを事前に予約しています。
本日の記録
この日も満身創痍。

次に続く
次回は平塚宿~箱根宿です。
