アニメ前史から東映動画へ:りんたろうと杉井ギサブローが出会うまで
日本アニメのはじまりと東映動画の流れについて
日本のアニメは、大正時代から映画館で上映されることが普通にあった。ただし、それはいわゆるセル画を使った“アニメーション”というより、切り絵を一コマずつ動かしたり、切り絵を入れ替えて動かすタイプの“切り絵アニメ”が中心だった。その後、セルを使った形になった。また、当時は短編作品として存在していた。
そして太平洋戦争——いや、正確には日中戦争の頃から、アニメは軍用の教材として使われるようになる。海軍や陸軍が使う兵器の使い方や構造を説明するためにアニメが活用され、その制作に携わった人々のことは、叶精二さんの著作や、大塚さんの本『作画汗まみれ』などに詳しく書かれている。
1958年、日本初のフルカラー長編アニメ『白蛇伝』

日本で初めてのフルカラー長編映画として1958年に東映動画が制作した『白蛇伝』がある。その原画を担当したのが森康二さんと大工原章さんの2人。当時はいまのようなチーム分業ではなく、原画はその2人が担い、そのほかは大卒の“動画マン”が支えていた。
『白蛇伝』のおもしろいところは、まだ“アニメ”が“まんが”と分離していないことがよく分かる点だ。トップカットは“影絵”の白黒で、まだ人形劇や影絵、江戸時代の演芸の延長線上にアニメがあったことが見て取れる。『人形劇団三国志』や『プリンプリン物語』のような存在と同列で扱われていた時代だ。
『白蛇伝』から派生してくるのが、のちに『銀河鉄道999』を手がけるりんたろうだ。彼の代表作は1979年の『銀河鉄道999』だが、この系譜を語るには、まず東映動画の流れを追わなければならない。
東映動画の誕生と、日動から受け継がれた人材
そもそも森康二さんと大工原章さんは元々「日動」という会社に所属していた。東映はアニメ制作会社・東映動画を立ち上げる際、その母体として日動を買収した。
日動の中心スタッフだった森康二、大工原章、さらに後に大塚康生さんもそこに加わる。大塚さんは当時、麻薬取締官の事務をしていたが、東映動画に買収される前提の中で日動に転職してきた、という経緯がある。
白蛇伝の制作前には、日動以外の班と短編作品のコンペがあり、森康二・大工原章・大塚康生ら日動組が勝利したことで、『白蛇伝』に抜擢される流れが生まれた。
りんたろうと杉井ギサブローがつながるまで
『白蛇伝』の前に、りんたろうが後に“エイトマン”を作る会社(エイケンの前身)から東映動画に契約社員として転職してくる。この会社は、もともとYANASE(現在ベンツなどを輸入販売している会社)のCM制作をしていた広告会社だった。そこでアニメの仕上げとして働いていたのがりんたろう監督だ。
東映動画で動画で働いていた杉井ギサブロー監督との出会いが生まれ、のちの『銀河鉄道の夜』へと繋がっていく。さらに、りんたろうが『銀河鉄道999』を監督することになるためにも、東映動画の歴史、そしてその後の虫プロダクションの設立を押さえる必要がある。
大塚康生、奥山玲子さん、小田部羊一さんなど、多くの伝説的アニメーターがこの流れの中で育った。
海外を見据えた東映動画
東映動画は最初から東映社長の大川博が「東洋のディズニーになる」と掲げ、海外セールスを目指したアニメーション映画会社だった。その第1作目が『白蛇伝』だった、というわけだ。
またこの“東洋のディズニーになる”を押さえておかないと、その後のアニメーターの離脱を語ることができない。
次は、東映動画から虫プロなどに離脱した理由、その後の流れを整理したいと思う。
