SNS時代とは「国民総エポケー」から「国民総独我論」へ向かう時代なのか
近代ジャーナリズムは、国家権力を監視することを使命として発展してきた。
権力を疑う。
政府を疑う。
常識を疑う。
その批判精神は、民主主義社会において極めて重要な役割を果たしてきた。
しかし、SNSの普及によって、この「疑う精神」は思わぬ方向へ自己増殖を始めたのではないだろうか。
📰 権力を疑う時代から、ジャーナリズムを疑う時代へ
かつて、市民は新聞やテレビの報道を通じて社会を知った。
もちろん批判はあった。
しかし基本的には、ジャーナリズムは「権力を監視する側」として一定の信頼を得ていた。
ところがSNSは状況を一変させた。
国民はニュースを受け取るだけの存在ではなくなった。
報道そのものを評価し、
切り取りを批判し、
偏向を指摘し、
事実確認を行い、
ジャーナリズムそのものを監視する主体となったのである。
監視する者が、監視される時代。
これがSNS時代の大きな転換点だった。
🤔 国民総エポケー
この現象を私は、あえて哲学の言葉を借りて
「国民総エポケー」
と呼びたい。
国家を疑う。
メディアを疑う。
専門家を疑う。
学者を疑う。
インフルエンサーを疑う。
AIを疑う。
つまり、あらゆる権威を一度「括弧に入れる」態度が社会全体へ広がっていったのである。
もちろん、本来のエポケーは認識を深めるための哲学的方法であり、SNS時代を説明する概念ではない。
しかし比喩として見るなら、この時代ほど「何も無条件には信じない」という姿勢が社会に浸透した時代はないだろう。
📱 エポケーの果てに待つもの
だが、ここで一つ問題が生じる。
疑い続けた先に何が残るのか。
国家も信じない。
新聞も信じない。
テレビも信じない。
専門家も信じない。
AIも信じない。
そうして最後に残るのは、
「自分が信じられるものだけを信じる」
という態度ではないだろうか。
私はこれを、比喩的に
「国民総独我論」
と呼びたい。
もちろん哲学の厳密な独我論とは異なる。
ここでいう独我論とは、
「自分の体験こそ真実」
「自分のタイムラインこそ世界」
「自分のコミュニティこそ現実」
という情報環境を指している。
🌐 SNSが生んだ逆説
SNSは本来、誰もが自由に発信できる民主的な空間として期待された。
しかしその自由は、
批判精神をさらに加速させ、
あらゆる権威への懐疑を生み、
やがて共通の信頼基盤そのものを揺るがすことになった。
皮肉なことに、
ジャーナリズムが長年育ててきた批判精神は、
ジャーナリズム自身へと向けられたのである。
✍️ おわりに
私はジャーナリズムを否定したいわけではない。
むしろ、権力を監視する役割は民主主義に不可欠だと考えている。
しかしSNS時代は、その批判精神が自己増殖し、国家だけでなく、メディア、専門家、さらにはあらゆる権威へと向かう時代になった。
その結果として、
「他者や制度への信頼が低下し、自分が信じられるものだけを信じる社会」
へと少しずつ傾いているのではないか。
もしそうだとすれば、
SNS時代とは、
ジャーナリズムが育てた批判精神が自己増殖し、「国民総エポケー」を経て、「国民総独我論」へと傾いていく時代なのかもしれない。
