「そんなの、もうわかってる」って思っていた。でも、現場はまだ違っていた。
「子どもの涙を無視すると、実はその後がもっと大変になる」
このnoteを公開したとき、ある思いが頭をよぎっていました。
——「いや、それって今どき当たり前の話じゃない?」
——「誰だって、子どもを大切にしたいって思ってるでしょ」
——「いまさら“共感が大切”って言われなくても、わかってるよ」
そんな声が、どこかから聞こえてくるような気がしていました。
実際、私自身もこれまでにいくつもの講座や本から、同じようなことを学んできました。
多くの保護者が「ちゃんと向き合いたい」と願っていることも知っています。
けれども、実習やパートとして保育現場に立ってみると、
「やっぱりまだ、十分には伝わっていないんだ」と感じる瞬間が、何度もありました。
「自立の成長を妨げるから、抱っこしないように」
そう、まるで当たり前のように語られる言葉に、私はふと立ち止まってしまいました。
「抱きぐせがつくから、あまり抱っこしすぎないように」
「泣いているのに抱っこを求めてこない子の方が育てやすい」
そんな言葉を、今でも保育現場の一部で耳にすることがあります。
もちろん、すべての先生がそうだというわけではありません。
実際には、子どもの気持ちに丁寧に寄り添い、温かく接している先生方にもたくさん出会ってきました。
そして、現場全体としても、昔に比べれば少しずつ変化し、良くなってきていると感じる部分もあります。
だからこそ、「もう十分伝わっているはず」ではなく、「まだ伝え続ける必要がある」。
そう思いながら、私はこの文章を書いています。
現場で「自立のために抱っこしない」という言葉を聞くたびに、私は心の中でそっと問い直しています。
「その“自立”とは、一体どんな姿を指しているのだろう?」
手がかからず、大人に甘えず、自分の気持ちを抑えられる子。
そうした姿が“育てやすい”とされ、そこに「理想の自立像」が重ねられていることも、少なくありません。
けれど、本当の意味での“自立”とは、安心して“依存”できる経験を土台として育っていくものではないでしょうか。
自分の気持ちを受け止めてもらった体験があるからこそ、
やがて自分で気持ちを整理したり、他者の存在に支えられながらも、ひとり立ちしていけるのだと思います。
そしてもうひとつ、私が感じるのは、
こうした言葉の背景にある**“現場の構造的な問題”**です。
保育者の配置人数、保護者対応、書類業務など、多忙を極める日常の中で、
一人ひとりの気持ちに丁寧に応じる時間がどうしても足りない。
それは責めるべきことではなく、制度や現場の在り方そのものが「寄り添いにくさ」を生んでしまっているのだとも感じます。
だからこそ、こうした“現実”を見つめながら、
それでもなお「大切にしたいことは何だったか?」という原点に立ち返る時間を、私たちは時々必要としているのだと思います。
「言葉」のうえでは、「子どもの立場に立って考える視点」が、少しずつ広がってきています。
けれども、その「言葉」が「行動」として現場にまで行き届いているかといえば、
まだそうではないと感じる場面も、少なくありません。
たとえば——
・泣いている子に「まず泣き止んでからね」と声をかける場面。
・「○○ちゃんは泣かないのに、どうしてあなたは…」と比べる場面。
・抱っこを求める子に「大きい子なんだから」と制する場面。
どれも、決して“悪意”からではなく、「その場をどうにか保とう」とする一生懸命の中で、起こっていることです。
だからこそ、私たち大人が、少しずつ視点を変えていくことができれば、現場全体の空気も変わっていくと、私は信じています。
「抱っこして」と泣く子は、“甘えている”んじゃない。
今、この世界でいちばん安心したいだけ。
その瞬間をまるごと受けとめられる大人が、ひとりでも増えたら——
きっと、子どもたちの世界も、
そして私たち大人が働く現場も、もっと優しくなれる。
私は、そう信じています。
なお、保育の現場では「親との分離」など、不安が明らかな場面では、
泣く子にすぐに寄り添うことが大切だとされています。
けれど、ではそれ以外の場合はどうでしょうか?
たとえば、外出先で「帰りたくない」と泣くとき。
お店で「あれ買って」と言って、買ってもらえず泣き叫ぶとき。
子どもの“泣き”が、私たちの望むタイミングや理由に合致していないとき、
どう応じたらいいのか迷うことも、あるかもしれません。
次回は、こうした場面について——
モンテッソーリ教育の「自由と制限」、そしてICPS(子どもの問題解決スキル教育)の視点から、
私の考えを綴ってみたいと思います。
