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短編小説『映える女』

——その日、私は友人たちとヨガをやっていた。

 スタジオの照明は少しオレンジがかっていて、床に敷いたマットの感触がいつもより柔らかく感じられた。動きながらでも撮影できる、耳掛け式のウェアラブルカメラが揺れた。
 隣で同じポーズを取る友人の姿は新しいヨガウェアが目立っていた。それを横目に見ながら、私は深く鼻から息を吸った。

 私のインスタにはさっそく新しいヨガウェアを着た友人との写真が上げられた。今日もキラキラした内容の画像に、みんなからたくさんの「いいね!」がもらえた。

——よし。

 友人と別れて、気づいたときにはもうかなり遅くなっており、帰宅したのは夕食の時間を大きく過ぎてからだった。

 玄関を開けると、リビングの明かりがついていた。テーブルに肘をついたまま指を組んでいた夫が、空の食器を前に待っていた。
「……遅かったな」低い声だった。
私は靴下を脱ぎながら「ごめん、ちょっと長く話し込んじゃって」と答えた。夫は表情も変えず、ただこちらを見ていた。
「……夕飯さ、どうするつもりだったんだ」

 私はヨガウェアの上に羽織っていたカーディガンをランドリーラックに脱ぎ捨てると「今日はもう残り物で良いでしょ、疲れてるし」そう言いながら階段に向かった。

「昨日は映画だ、一昨日はアフタヌーンティーだったか? 毎日のようにふらふら遊び歩いて、家のことは後回しかよ!」
 キッチンから夫が嫌味たっぷりにそう吐き捨てると、カチンときた私は少し声を大きくした。
「そう言うけどさ!友人との付き合いも大事なんだよ!」
ムカムカしながら二階への階段をドタドタと登った。夫の声が一瞬で険しくなった。
「はあ?今日は誰と遊びに行った?言ってみろよ」
「近所の恵ちゃん……」
「誰だよそいつ」
「いつも私を誘ってくるあの子だよ」
「だから、どんな顔したどこのやつだって聞いてんだよ」
「それはその……ほら」
 私がスマホの写真を見せようとすると夫は鼻で笑った。

「顔も知らないような友人と遊び歩くのが付き合いだ? 俺はお前の遊ぶ金とやらを稼ぐためにこの暑い中、丸一日働いて来てんだよ!」
 怒鳴る声がリビングから階段まで響いた。

「そんなに声荒げることないじゃない!私だっていろいろあって……!」
「いろいろあるのは俺も同じだろうが!お前の毎日のインスタだの、くだらない話だの、もううんざりなんだ! いい加減にしてくれ!」
 そう頭を掻きむしりながら夫は立ち上がると、階段下にやってきて、二階の私を睨むような目つきで一歩一歩昇ってくる。

「あれからお前はいつもそうだ……ずっとそんな言い訳ばかりして。……俺たちに子どもでも居れば違ったのかもな」

その一言が、場の空気を一瞬で凍らせた。
「言っていいことと悪いことあるでしょ!!」私は思わず声を荒げた。

——その瞬間、五年前、流産した時の記憶が脳裏をよぎった。

 病院の白い天井、シーツに染みた赤い染み、医師の淡々とした低い声。「残念ですが……」
 あのとき、夫は肩を落として隣にいたのに、何も言えなかった自分。お互いにかける言葉が見つからなかった二人。胸の奥が急に熱くなり、視界が少し滲んだ。
 私は消えていく我が子を追うように必死に両手を伸ばした。それは、その言葉と記憶が胸に突き刺さり、反射的に腕が動いただけだった。

——ただ、結果的にその伸ばした腕は、階段を昇ってきた夫を突き飛ばす形となった。

「えっ……?」
 瞬間、夫が驚いた表情のままスローモーションで宙を舞い、下に落ちていくのを、私は目で追っていた。
 夫の体がふわりと後ろに傾き、両腕が虚空を無様に掻く。目が見開かれ、口が半開きになったまま。そして、階段の段差に背中を打ち、一つ、また一つと転がっていく音が、遠くから聞こえるように遅く、はっきりと響いた。手すりに肩がぶつかる鈍い音。そして、一階の床に落ちる重くて嫌な音——

 私は最上段に立ち尽くしたまま、動けなかった。

「ウソでしょ……ねえ、ねえ!」
 夫からの返事はない。私は慌てて駆け下りた。夫は一階の床に仰向けに倒れていた。後頭部のあたりから、じわりと赤いものが広がる。呼吸は浅く、途切れ途切れだった。
「お前……そんなことまで……もう……そうか……」

そう漏らす夫の傍で私は膝をついた。
「ごめん……ごめんね……」
 声が震えた。友人とのヨガも、遅れた夕飯も、あの怒鳴り声も、あの一言も、流産の記憶も、もうどうでもよくなっていた。ただ……自分が押してしまったという事実だけが、頭の中で何度も繰り返された。

 えっと……あの……あ、そうか、救急車……!

 スマホを取り出し、震える手で救急車を呼んだ。到着までの数分間、私は冷たくなっていく夫の手を握り続けた。


「本当に、ただの事故だったんです……」
 誰に言うでもなく、何度も呟いた。運ばれた病院で「階段から転落。頭部に外傷」と説明を受けたときも、私は同じ言葉を繰り返していた。警察が来たときも。

「些細な事から言い合いになって、私が夫を……でも、わざとじゃないんです。本当に、思わず……」
「ちょっと確認したいことがありまして……橘京子さん、あなたはその日、友人とヨガに行ってて遅くなった、」

「ええ、最近よく行ってるんです、付き合いでなんとなく……」
「そこなんですが、そのご友人というのは……」

「近所の田所さん……田所恵という友人で、そういう流行りものにすぐ乗っちゃうんです。それで私も一緒に……」
「ちょっと調べさせてもらいましたがね、ご近所にある田所さんの家。そこに恵さんという女性はいらっしゃらないんですよね……」

「えっ……そんな、私いつも彼女と遊びに行って……」
「失礼ですが、その……お写真とかあります?一緒に遊んだ時などの」
 刑事は手帳を眺めながら淡々と話をつづけた。

「え……?まあ、ありますよ、インスタので良ければ……」
 京子はスマホのインスタを開くと、その刑事に写真をスワイプして見せた。画面を眺めた刑事は眉ひとつ動かさず「ははあ……なるほどですね。わかりました。あと……もう一つ確認したいことがありまして」と続ける。

「少々聞きづらいことではあるんですが、京子さん、あなたは以前に流産されたことがあるとか?」
「……ええ、それ以降、夫との仲も……」
「ちなみにそれは具体的に何年前だとか、覚えてらっしゃいますか?」
「え? あれは五年前のクリスマス前だから十二月中旬頃でした、病室が寒かったのを覚えてます」
「……なるほど、それはおつらかったでしょう」
「ええ……そのことをケンカ中に引き合いに出されて、私もついカッとなってしまって……」

「そうでしたか、お話ありがとうございます。では詳しいことは署の方で……」そう刑事が言いながら京子の両手にベージュのコートをかけると何か音が聞こえた気がした。なんだ今のは……気のせいか?

 そのコートの下には冷たい手錠をかけられた、彼女の細腕があった。そして、足元に何かが転がっていた。


——なあ聞いたか?今回の件、長くなりそうだぞ? え? 何で長くなるかって?……例の事件で捕まった妻がちょっとな。

……友人もいないのにヨガに行ったと言う、その友人の写真もAIで加工された架空の人間だった。
 さらに過去、妊娠した事実も無いのに流産したと思い込み——とにかく妄想がすごいんだ。まるで本当に体験したかのようにするすると口から出まかせが溢れてくるから、聞いてる方もうっかり信じてしまいそうになるんだよ。

 前に働いてた職場で鬱症状になってからだそうだ。

 え? 旦那? 周りの噂じゃ旦那もわかってたって話だったけど、途中からもう諦めてたような話だったな。さすがにあそこまでいくと、どうしようもなかったんだろうな——

 喫煙ボックスの中。同僚にそう話した刑事は腕時計を見やると、吸いかけのタバコをもみ消して、廊下に踏み出した。ふとスマホを手にインスタを眺めると、彼女の写真が更新されていた。投稿時間は、逮捕された時刻。

 あの音……シャッター音だったか。現場に耳掛け式のウェアラブルカメラが落ちていたという話を思い出す。

 写真には、俺が彼女の手にかけたコートが映っていた。

 そして、また「いいね」が増えた——