短編小説『夜に出かける妻』
——最近、妻の様子がおかしい。
私が仕事から帰って夕食の用意をした後、出かけていくことが増えた。友達との付き合いらしいので、私は気にすることなく「行っておいで」と言ったものの、まさかこんなに続くとは思っても見なかった。
しかも毎回、化粧をして、普段着ないような服で出かけるのだ。たまに私と出かける時なんて、そんなに時間をかけていただろうか。心なしか以前より、ふくよかになった気もする。……服のせいだろうか?
お互い四十を超えて、目尻にしわも出来たし、髪に白いものも増えてきた。この歳でさすがに浮気などという事はないだろうと思うも、やはりどこかで疑ってしまう自分がいた。
……とはいえ、妻は帰りが午前様になることはなく、二時間弱ほどで帰ってくるのが質が悪い。そのせいで怒るにも怒れずにいた。
しかし、帰ってくる妻は何故かいつも汗だくだった。そして帰宅後にはすぐにシャワーを浴びてしまう。
「この時期は暑いからすぐ汗かいちゃって……」
風呂上りにラフな格好で麦茶を飲みながらそう言うと、そのまま就寝してしまう。息子も成人して出ていったあと、空き部屋も出来たことで、私たちの寝室は別になっていた。
さすがに気になった私は、会社の後輩の伊藤くんに相談することにした。
「田沢さん、それ限りなく黒に近いグレーっすよ」
話を聞いた伊藤くんは、開口一番、不穏な事を漏らした。
会社の昼休み。部署の人間は外に食べに行くので、弁当派の私と伊藤くんが残っていることが多い。自然と会話することも増え、今回のような相談事を聞くことも、聞いてもらうこともあった。
「……いや、でも普段は何ともないんだよ? いつも通りなんだ」
「そこが尚更怪しくないっすか? 普段はあえて平静を装って……なんて、浮気する人間の常套句みたいなもんですよ」
伊藤くんは卵焼きを箸で摘んだまま、得意気にそう話す。
「そうなのか……? だとしても、どうしていいものか……」
「興信所! 興信所に頼んでみたらどうです?」
「しかし伊藤くん、私にも世間体というものが……」
「いやいや、そんな状況で世間体も何もありませんよ! いいすか? 時間が経てば経つほど、状況は悪化していくのは目に見えてますって」
言い切ると、伊藤くんはウインナーを口に放り込み、咀嚼音が響く。ちょうど真上にあるエアコンの音と、彼の咀嚼音だけが部署を支配した。
「うむ……それは確かにそうなんだが……」
「ほら、これ興信所の番号です。LINEで送っておきますんで。悪いことは言わない、早めに行動した方がいいっすよ?」
すぐに私のスマホに伊藤くんからの通知が届いた。
「おお……わざわざありがとうな。今度メシでも奢るよ」
「やだなあ田沢さん、いつもの定食屋で良いっすよ。調べて何も無きゃ無いで、すっきりするじゃないすか」
「……それはそうだな。いろいろありがとう」
「麦茶、取ってきますね」
彼が給湯室の冷蔵庫に向かうと、私はスマホの画面を眺めていた。
——あれから二週間が過ぎた。
私は目の前のアイスコーヒーの氷が解けるのを眺めていた。というのも先日、興信所の前田という男にこの喫茶店に呼び出されたのだ。
結局あの後、私は興信所を使ってしまった。金額はそれなりにしたが、このモヤモヤを抱えたまま毎日を暮らすくらいなら、伊藤の言ったように調べて何もなければそれでいいと思ったからだった。
私がこの席に座ってから何人目かが入ってきた。前田だ。私を見つけると向かいの席にかけ、「俺も同じので」と店員に告げると、使い込んだ鞄から茶封筒を取り出した。
「早速ですが、あれから一週間、調べた結果です」
テーブルに置かれた封筒からは写真の端が見えていた。
……知らない男と妻が腕を組んでホテルに入っていく写真だったら、目も当てられない。私はこの場面まで来て躊躇した。
「見るも見ないも自由です。そこに写っている事だけが事実ですので」
前田はそんな意味深な発言をすると、運ばれてきたアイスコーヒーに口をつけた。
……そんなの言われなくてもわかってるんだ。私は深く息をつくと、覚悟を決めて封筒から写真を取り出した。
そこには——
会社から帰ってきた夫の夕飯を準備して「じゃあ、私また行くから」と一言言うと、夫は私の顔も見ないまま「おう」とだけ答えて、夕飯の箸を進めていた。
——結婚してから二十年。もう私に興味なんかないことは知っている。
だから今日も私は出かけるのだ。四十にもなると流石にすっぴんで外には出られない。それなりにメイクして、それなりに良い服を着て出かけなくてはならない。
最初の頃は見送ってくれていた夫も、今やあの席から立つこともない。どうせ夕食を食べながらつまらないニュースでも見てるんだろう。
私は新しいサンダルに足を入れた。
少し高かったが、履いてみるとやっぱりかわいい。ただでさえ暑くて気分が落ちる夏は、こういうのでテンションを上げていかなきゃ。私は玄関から静かに出ていった。
駅前から一本入った路地にはラブホテルが並ぶ通り、通称ラブホ通り。この時間には満室となるホテルも多い。
ここを通るだけでもう、ムンムンとするあの匂いが漂ってきそうで、私の胸のドキドキは止まらなかった。焦るな私、もうすぐ……もうすぐだ。
「おう、田沢さん!」男が軽く手を挙げる。
「……また来ちゃった」私は少し照れながらも、彼の傍に腰かけた。
「いつものでいいかい?」
「ええ……それでお願いします」静かに頷いた。
「はい、こってり一丁ぉ!」
「こってり一丁ぉ!ありがとうございまぁーす!」
威勢の良い声が熱気漂う「拉麺処 天下逸品」の店内に響く。
鶏ガラと十数種類の野菜をじっくり煮込んで作った、ポタージュのようにドロリとした濃厚なスープ。私は友達と飲んだ帰りにここのラーメンを食べて衝撃を受けた。
こんなラーメン今まで食べたことが無かった私は、あっという間にこの味の虜となり、足繁く週に三日通うまでに至った。
そして店主の意向でエアコンはない。暑いときには熱いラーメンを汗だくで啜って欲しいという。なるほど、それは確かに。そんなところも自分には合っていた。
「お待たせしましたぁー!こってり一丁でーす!」
「ありがとうございまぁーす!」
カウンターに湯気が立ち上るこってりラーメンが置かれると、奥から威勢の良い声が響いた。食べてくれてありがとうと言っているようで、こってりを食べているという罪悪感も消えていく。
ムンムンとした活気ある店内、濃厚なスープの匂い……この空間にいるだけでもう心地よかった。
……いただきます。
私は湯気が立ち上るラーメンを、汗だくになりながら啜った——
