短編小説『その世界の外側から』
中学の帰り道は、いつもと同じアスファルトの坂道だった。低い夕陽が作り出す長い影を踏もうと、僕は追いかけた。どこまでもついてくる影にその足は自然に速くなっていった。
「あれ……?」
その影の動きを見ていた僕は、ふと立ち止まった。
——もしかしたら、僕の見えている範囲だけが動いてるんじゃないか?
その考えは、頭の隅にあった小さな種みたいなものだったが、その瞬間に急に芽吹いた。一度芽を出したらそれがどんどん膨らんでいって、頭から離れなくなった。
僕は坂の途中で振り返った。後ろの家並みは、いつものように静かに並んでいる。……でも、それって本当?
あの向こう、見えていない視界の外って、本当は世界が止まってるんじゃないか? そんな思いが止まらなくなった。
「……確かめてみるか」
そこに、知らなかった世界の真実が隠されてるかもしれない。
僕はスクールバッグを抱えたまま、全力で走り出した。坂を下りきり、いつもの角を曲がり、見慣れた住宅街を突っ切っていく。視界の端から端までを見逃さないように、首を激しく振りながら走った。
あの家の裏側、路地の奥の奥、公園の木々の向こう側——
全部全部、僕が今まで「見えていなかった」場所。
もしかして……と思いながら息を切らして走った。でも、走れば走るほど、先の世界はやっぱり動いていた。
自転車に乗ったおばさんがベルを鳴らしながら普通に通り過ぎ、犬を連れた男性とおじいちゃんが笑いながら世間話をしている。コンビニの自動ドアが開閉し、信号がちゃんと色を変える。
どこまで行っても、止まっている世界なんて一つもなかった。まさか、僕が行く先に合わせて、書き換えられていってるのか? だとしたらどうやって世界の真実を……
——はあっ、はあっ……。
息が上がるほど、足がもつれそうになるまで、ムキになって走り続けた。しかしどこまで行ってもそんな真実なんてあるはずもなく……さすがに疲れ果て、僕は路地裏の電柱に手をついて、肩で息をしていた。
そんな……やっぱり、全部僕の幻想だったのか。
何が世界の真実だ……そんな失望が胸の奥に重く沈む。世界は僕の都合なんか全然関係なく、いつも通り勝手に回ってるのだ。
——そのとき、反対側から同じように息を切らした影が近づいてきた。
それは同じ歳くらいの男子生徒で、制服は同じ中学校のものだった。汗だくで、肩を上下させていた彼は、僕と目が合った。
「……同じだ……」彼がぽつりと言った。
その言葉で、僕は確信した。彼も、同じことを思って走ってきたんだ。男子生徒は少し躊躇しながら、でもまっすぐに僕を見て言った。
「ねえ、もしかして……キミも見えてない世界を追ってきたの?」
僕は頷いた。息がまだ整わないまま、言葉を絞り出す。
「うん……そうなんだけどさ、待って……キミがそっちから走って来たって事は、やっぱり見えないところでも世界は動いてるんだ……」
彼は苦笑いしながら、額の汗を拭った。
「そうだね、どうやらそうみたい。ゲームの世界みたいに視界の外が止まってるわけじゃないんだね……」
「あはは、まさか同じ疑問を持って走る人が、同じ学校にいるなんてね」
「世間は狭いって言うけど、こういうことかもね」
「ほんとだよね」
僕らは顔を見合わせて、照れくさそうに笑った。
「でもすっきりした」
「うん、モヤモヤしてたけど、すっきりした」
夕陽が路地を赤く染め、遠くでカラスの声がする。僕らは軽く手を挙げて別れた。その夜、ベッドに横になって僕はスマホを取り出した。布団の中で画面の明かりだけを頼りに「自分の見ている範囲以外 世界 止まっている」「視界の外 存在しない」などで検索しまくった。
どうやらそれは「独我論(solipsism)」というやつらしい。
世界は自分の意識の中にしか存在せず、他人はすべて自分の心が作り出した投影に過ぎない——という古くからある哲学的な考え方だ。僕は画面をスクロールしながら、妙な安心と、同時に胸の奥がざわつくのを感じた。
……今日出会ったあの男子生徒は、僕の投影なんかじゃなかった。彼も同じ疑問を抱いて、同じように息を切らして、同じようにすっきりした顔をしていた。
僕の視界の外から、ちゃんと自分の足で歩いてきたんだ。
世界は、僕一人のために作られた舞台なんかじゃない。何億もの無数の意識が重なり合う、広大な海みたいなものだ。
——次の日の朝、道路の向こうに、昨日の彼が歩いているのが見えた。同じ制服、同じ鞄、昨日と同じ横顔。目が合うと、彼もふっと笑った。気が付くと僕は軽やかに走り寄っていた。
並んで歩き始めると、彼が少し照れながら切り出した。
「ねえ、思ったんだけどさ、二人なら見える世界も広がるのかな?」
「へええ、昨日の続き?面白いねそれ」
僕はそう笑ってみせると、彼は照れくさそうに頭をかいた。
「ごめん、今更だけどぼくは悠真。キミは?」
「ぼく浩太。よろしく、悠真」
朝の少し涼しい風が二人の間を抜けていく。昨日までは一人で抱えていた疑問が、今は二人分の視界になって、少しだけ大きくなった気がした。
世界は確かに、僕の目が届かないところでもちゃんと動いている。そしてこれからは隣にいる悠真の視界が、僕の世界を広げてくれるのだろう。そしてそうやって見える世界を少しずつ広げていくというのも面白そうだなと思った。
「単純だけどさ、見る目が増えるぶんだけ、世界が広がるってすごいよね」
「だね、そんなこと今まで考えたことも無かったね」
笑いながら二人で歩く朝の坂道は、いつもより明るく感じていた——

