短編小説『呼び覚ました夏』
——小学校四年生の夏、私は郁人と幹雄と三人で、近所の古い神社で遊んでいた。境内は苔むした石畳が続き、色がはげかけた鳥居の影が長く伸びていた。周囲の森から聞こえる蝉の声がうるさいほどで、汗が首筋を伝う。
ふと、奥のほうの小さな祠の横に、板で塞がれた井戸を見つけた。板には古びた御札が貼られ、端が少しめくれていた。
「幹雄、亜希、これ開けてみようぜ」
好奇心旺盛な郁人がにやりと笑った。太っちょの幹雄は眉を八の字に寄せて、口を尖らせた。
「でもさ、お化けとか出てきたらどうすんだよ……」
「お昼だから大丈夫じゃない?こんなに明るいし」
私がそう言うと、郁人も「……だな」と笑い、三人で力を合わせて板をずらした。かび臭い井戸を覗くと、中は真っ暗だった。古い石積みの井戸。
郁人が小石を拾って投げ込んだが、水音はしなかった。ただ、かつんと石が跳ねた音が底のほうで響いた。
「……何もないじゃん。期待外れだわー」
郁人がわざとらしく肩をすくめてみせた。幹雄はもう興味を失っており、「郁人、ブランコ行こうぜ」と古びたブランコを指差した。
「おっしゃ、高さ勝負な!亜希も来いよ!」と郁人が走り出すと、幹雄が後を追った。
「ちょっと、二人とも待って……」と声をかけたが、聞こえていないようだった。……というのも、井戸をそのままにしておくのは少しまずい気がしたのだ。
後で怒られるのは嫌だし……と、私は一人で板を戻し、御札をできるだけ元通りに貼り直した。指先が少し震えていたのは、気のせいだと思った。
二人と別れての帰り道、私は近道の線路下トンネルを通った。友達の間では通称「幽霊トンネル」と言われているジメジメして暗く、昼間でも薄暗くて気味の悪いトンネル。
でもまだ明るい時間だから大丈夫——そう思って足を踏み入れた瞬間、トンネルの奥に人影があった。白い着物姿だったが薄暗くて顔はよく見えなかった。私が横を通り過ぎるときに、ぼそりと何かを呟いた気がした。
あまりの怖さに思わず悲鳴を上げて走って逃げた。トンネルを出た後も、冷汗と動悸が止まらなかった。
——翌日、学校で郁人と幹雄にそのことを話すと、二人は笑ってくれると思ったが、予想に反してどちらも眉をひそめた。
……というのも、実は郁人は大きな木の下で、幹雄は橋の上で、それぞれ着物を着た人を見たという。そして二人ともこう告げた。
「こっちを見てた」
それ以来、三人で遊ぶことはめっきり減った。あの話題にも触れなくなった。今思うと、その頃からもう異変は始まっていたのだと思う。
——二週間後、幹雄が突然引っ越すことになった。
「お父さんが急に倒れて……それの原因がわからないから、遠くの大きな病院で検査したり治療したりするために入院することになって……それで母さんと僕も引っ越すんだって」
そう話す幹雄は、久しぶりに会ったせいか、少し顔色が悪いように見えた。一緒にいた郁人も知らなかったらしく驚いていた。
幹雄を見送った後、隣にいた郁人がぼそりと言った。
「なあ亜希……なんかさ、誰かに見られてる気がしない?」
私は頷いた。あの日以来、ずっと感じていた。登校中、宿題中、夜中にトイレに立つとき。後ろに誰かが立っているような、視線が背中に突き刺さるような感覚。
「郁人も?私もなんだけど……もしかしてさ、あの時の……」
「待て。お前、絶対それ誰にも言うなよ」
「うん……わかった」
その話をしてる時も、粘っこい視線を背中に感じていたのだ。
——それから三年が経った。
中学一年生になった私は郁人と別のクラスになり、それぞれ新しい友達ができて、話す機会もほとんどなくなった。
それでも、たまに廊下ですれ違うたび、目が合うと軽く頷き合った。
——まだ、見られてるよな?
その無言の確認作業だけが、郁人との間を繋いでいた。
そんな中学生活をしていたなか、郁人が二週間ほど学校に来ていないという話を友達づてに聞いた。私は変な胸騒ぎがして、覚えていた記憶をたどり、学校帰りに郁人の家に行ってみた。
すると、郁人の家はもぬけの殻だった。中はがらんどう。外には『売家』と書かれた看板が立っていた。私が呆然として突っ立っていると、通りがかった近所のおばさんが声をかけてきた。
「あら、亜希ちゃん?大きくなったねえ!」
あの頃、よく郁人の家の前で遊んでいたので、覚えていたのだ。事情を話すと、おばさんは少し声を落として言った。
「沢村さんとこね、ホントに急にいなくなったんだって。でも前から声が聞こえるだとか、見られてるだとか、いろいろおかしなこと言ってたからねえ。おかしくなっちゃったのかしらねえ……」
やはり、ずっと何かに見られていたようだった。そして声も……? 私は思わず身震いし、そそくさと立ち去った。恐ろしい想像だけが広がっていくのを必死にかき消した。
それから郁人が、どうなったのかはわからない。
幹雄、郁人ときて……次は、私の番なのだろうか。
しかし、それから特に何も起きなかった。何かに見られているという感覚は次第に薄れ、普通の生活に戻っていった。やはり、あの井戸には何かがあったのだろうか。
そういえば後で知ったことなのだが、その頃ちょうど、井戸が区画整理のために、埋め立てられたと知った。それと関係があるのかはわからないが、視線の感覚はぴたりと止んだ。
——蝉の声が、昔より聞こえなくなった気がする。
今、大人になった私は日傘を差して、愛娘をベビーカーに乗せて散歩している。結婚後、引っ越したマンションの近くで公園のある神社を見つけたのだ。木々が良い日陰になって、娘も涼しそうだ。
そこの公園の少し古びたブランコを楽しそうに漕ぐ子供たちを見て、ふと昔のことを思い出していたのだ。そしてふいにあの時の幽霊トンネルで、ぼそりと呟かれた言葉を思い出してしまった。
「見てるからな……」
思わずゾッとした。なぜ今あの言葉を……と、その時、あの頃のような視線を感じた。
えっ……? 今、確実に誰かに見られている。視線を動かしたが、それらしい人は見当たらない。ふと、下を見下ろすとベビーカーの中から、幼い娘が目を見開いて私をじっと見ていた。そして、不敵な笑みを浮かべているように見えた。
「……まひな!?」
私はそれが信じられず、娘を抱き上げた。不安に思いながら顔を寄せると、まひなはいつもの無邪気な笑みを浮かべていた。しかし、私の動悸はなかなか収まることはなかった。
——あの時、私たちはいったい何を呼び覚ましてしまったのだろうか……
