短編小説『赤子の鳴き声ですか?』
「ええ、そうなんです……ここのところ、毎夜そんな声が聞こえてきてて……さすがに疑ってしまいますよね」
「なるほど、それで浜辺さんは今回ご連絡を……」
「ええ、周りの人も気づいてると思いますので……なんとかお願いします」
「わかりました、ではすぐにでも捜査員を現場へ向かわせます」
「はい、よろしくお願いします。失礼します……」
これで事が収まると良いけれど……私はドキドキしていた鼓動とは裏腹に、スマホをそっと静かに置いた。
——ある日、仕事を終えてアパートに帰り、カップラーメンのお湯を沸かそうとしてると、すりガラス越しに部屋の前に人が立っているのが見えた。
もう暗くなってきていて遅いし、今日は疲れていたので無視しようとすると、コンコンとノックされた。
「葛城さん?いらっしゃいますかー?」俺の名前を呼ばれた。すりガラス越しのシルエットから、その声の主が警察官だという事が分かった。
えっ?俺……何かしたっけ?
こないだ見た有料サイト絡みとか?ウソだろ……?
恐る恐るドアを開けると、そこには二人の警官が立っていた。
「どうも、こんな時間にすみませんね。葛城勇人さんご本人ですか?」
「ええ……そうですけど、俺、何かしました?」
「ええ、それがですね……」
——警察官の話を要約すると、どうやら俺に「幼児虐待の容疑」というのがかけられているという。
「え……?俺が?マジで?」
思わず声が裏返った。
というのも、俺は三十五歳で一人暮らし。身長も収入も低い俺には子どもどころか妻もいない。なんなら彼女すらできたことがない万年非モテ男だ。
「お巡りさん、このナリでどうやって結婚できるか教えてくださいよ」
そう言いたいのをぐっと堪えて、見てもらった方が早いと思い、部屋の中をざっと見せた。 築50年で六畳二間の古びた小さな部屋は、すぐに見渡せる空間だった。
壁には好きなVtuberのポスター、棚にはそのグッズが所狭しと並び、本棚にはコミック本やプラモデルが飾られ、大きめのテレビの周りにはゲーム機、ちゃぶ台の上にはお湯を注ぐ予定だったカップラーメン。寝床は薄汚れた万年布団。どこからどう見ても、完全に独身男性の部屋だった。
——あれ?子供っぽいと言えば、そう見えるかもしれないな。つい自虐的に笑ってしまった。
部屋の様子を眺めていた中年の警官の一人が言った。
「確かに……でも上の階の人も、隣の部屋の人も『この部屋』だと言ってるんですよね。深夜に子供の泣き声が聞こえるって証言がありましてね」
「だから子供なんていないって、見ただけでわかるでしょ?」
俺は少しイラつきながらそう返した。
「困ったなあ……とりあえず連絡だな」
中年の警官にそう言われた背の高い警官は玄関の外に立ち、無線で何かを話し始めた。
お腹空いてるのにこの騒ぎは何なんだ。俺が深いため息をつくと、部屋の蛍光灯が急にチカチカと点滅し始めた。
今度は蛍光灯かよ……古いものなので切れかけてるのかと思って、点滅する蛍光灯を眺めていると、ぷつりと消えてしまった。
「あ……」
俺と中年の警官は数秒間、天井を見上げ、顔を見合わせた。
——その瞬間だった。
「んああああ……んあっ……んああああ……」
急に赤ん坊のような泣き声が、聞こえたのだ。
「えっ……?」
俺は耳を疑った。声は、どうやら自分の部屋から響いている。
「ウソだろ? ど、どこから……?」
しかし耳を澄ましても、正確な位置がわからない。部屋の隅の方と言えばそうともとれるし、そこで耳を澄ますと、中央の方から聞こえる。どこ、というよりは部屋全体に鳴き声が響いているような感覚だった。
外にいた背の高い警官もすぐに気づき、懐中電灯で部屋を照らしながら入ってきた。
「声、聞こえてますよね!失礼します!」
入ってきた彼と中にいた中年の警官と俺との三人で、一緒に狭い部屋を懐中電灯で照らしながらキョロキョロと見回した。
——しかし、赤子どころか、誰もいない。
棚に並ぶプラスチックのフィギュアの瞳が不気味に反射するばかりで、家具の隙間にも、押入れの中にも、人の気配はない。それなのに、泣き声は確かにこの部屋の中から続いているのだった。
「葛城さん、これはどういうことですか?」
「いや、俺もこんなの初めて聞いたんで……そんなこと言われても……」
一番うろたえている俺をよそに、警官たちも困惑を隠せない。
すると、隣の浜辺というおばさんが玄関から顔を覗かせ、高い声を荒げた。
「ね!やっぱり聞こえてるわよね!?赤ちゃんがそこにいるんでしょ!?可哀そうに……!お巡りさん、早く何とかしてちょうだい!」
「いや、何とかと言われましてもね……赤ちゃんどころか子供すらこの部屋にはいないんですよ……」ベテランらしい中年の警察官も完全に不測の事態で、返答もしどろもどろだった。
「何言ってるの?どういうこと?声聞こえてるじゃない」
そう詰め寄る浜辺に警官も「いや、それはそうなんですけど、ちょっとごめんなさいね、今調べてますので」と、その場しのぎの言い訳をするので精いっぱいだった。
「おい、どうすりゃいいんだ」
「どうするっていわれましても……手だてが……」
戸惑う警官二人が小声で相談している間も、部屋には「んああああ……んああああ……んあっ、んああああ……」と赤子の泣き声は響き続ける。
異変に気付いた他の住人たちもなんだなんだと集まってきて、俺の玄関先でざわつき始めていた。外からは背の高い警官が呼んだ、応援のパトカーが近づいてくる音が聞こえていた。
懐中電灯で部屋の隅々を照らし続ける警官たちと共に、俺は自分の部屋で何が起きているのか、全くわからなかった。
「誰か……誰か助けてくれ!」
あの騒ぎから一週間。
結局、あの後に応援の警官が二人来たけれど、その頃には鳴き声は止んでしまって、原因もよくわからないままだった。警官の話からもただの騒動、として片付けられそうな感触だった。
俺はいつまたあの鳴き声が始まるかと思うと、夜も寝付けなくなってしまい、大好きだったVtuberの推し活どころではなくなってしまった。とりあえず平穏な生活を手に入れるためには、ここから離れたほうがいいかもしれない。そう思って新しいアパートを探し始めた——
「みんなー、今日もコメントありがとう!大好きだよー!じゃあまたね」
私はマイクをオフにした。流れていくコメント欄をそっと閉じる。
——あの騒ぎから二週間。
ようやく葛城が部屋を出たようだ。
賭けだったけれど、上手くいってよかった。念のために蛍光灯を消したのはよかった気がする。蛍光灯のリモコンスイッチは私が持っていたのだ。
フィギュアの後ろなどに隠して設置していた小さなBluetoothスピーカーも、警官にはバレなかったようだ。あの騒ぎのあとに、こっそりと回収しておいた。葛城の部屋のスペアキーも処分した。
「浜辺さんってアニメ声っぽくていい声ですよね? 何か活動とかやってたりします?」
アパートの外で葛城と偶然会って軽く挨拶したとき、ニヤニヤしながら彼がそう言った時はゾッとした。
「ええ、よく言われるんですー」と軽く流しておいたが、私は知っている。
彼がVtuberを推してることを。
いつだったか、荷物が彼の玄関先に置いてあったのを偶然見かけたことがあった。それはVtuberミナミンの限定フィギュアだった。私はその時から、何とかしないといけない。そう思っていた。
——そう、私がそのミナミンの中の人なのだ。
彼はまだ私の見た目から同じアパートの浜辺というおばさん、としか認知していないようだが……隣の部屋というあまりに近い距離での配信は、その声でいつ気づかれるかと、毎日ひやひやしていたのだ。配信中にうっかり生活音が漏れて、彼に特定されるんじゃないかと肝をつぶしたこともあった。
そんな日々が続いたある日、彼の玄関先の窓の隙間に、スペアキーが挟まっているのを見つけたことで、今回の事件を思いついた。
そこそこ人気も出てきたかわいいVtuberミナミンの中の人が、こんな冴えない普通のおばさんだと、絶対にバレるわけにはいかないのだ。
これだけ肝を冷やされる毎日を送るくらいなら、その元凶である葛城を、彼を部屋にいられなくしてしまえと——ついに実行に及んだのだった。
こうして、私はようやく平穏な日々を手に入れることが出来た。今日からは身バレに怯える冴えないおばさんの浜辺ではなく、Vtuberミナミンとしてキラキラした日を送るのだ。
——それから一か月後、隣の部屋に新たな入居者がやってきて、私は絶句した。
「どうも、隣に越して来た相模と言います」
そう話す腹の出たおじさんが着ていたのは、横に伸びたミナミンTシャツだった。
