短編小説『乾かないために』
「あ……雨、止んだみたい」
玄関を出ると、雨が上がっていた。ドアを閉めるときに壁に何かくっついているのを見つけた。それは、小さなカタツムリだった。
「うわ、カタツムリとか久しぶりに見た」
壁にピッタリとくっついて殻に閉じこもっている。指ではじこうかと思ったが、やめた。殻の中で寝てるのかもしれない。
調べると、殻に籠る行動は乾燥から身を守るという行動もあるらしい。
「ははあ、お前も乾燥苦手なんだねえ、わかるよ!お肌の大敵だよね」
化粧水に美容液といろいろ試してて、何かと保湿対策はしているからそのカタツムリに妙に共感してしまった。まあ、カタツムリにとっては直接、命に係わることなのだから当然といえば当然なのだが。
私は三十七歳、郊外の安い借家で独り暮らしをしている編集者だ。三十を過ぎてから、急に「乾く」という言葉が重くなった気がする。
人間関係も、仕事も、夢も、すべてが潤いを……少しずつ失っていくような感覚がして。そんな薄れていく潤いを閉じ込めておけるような、殻のようなものが私には無いのだということを思わされた。
雨上がりの湿った空気が、まだ優しく残っている。カタツムリは灰色がかった小さな殻を壁にぴったりとくっつけ、微動だにしない。
よく殻を破るとかいう表現があるけど、これはきっとそういうものではないんだよなあ。
夜露や雨を待って活動し、乾いた風が吹けばすぐにその殻に閉じる。シンプルで、賢い生存戦略装置だ。
それに対して、人間はもっと複雑で面倒だ。保湿しながらも、ストレスでその水分を飛ばし、笑顔を作りながら、反面、心を乾かしていく。
「なんだかなあ……行ってきます」
壁のカタツムリにそう声をかけて家を出て、会社に出勤した。
その日の昼休みは打ち合わせも兼ねて、同僚の金森さんとランチに行った。彼女は最近離婚したばかりで、ここのところ、いつもより笑顔が薄い。そんな彼女を少しでも元気づける意味も兼ねてのランチだった。
小さなかわいい器に少しずつ盛り付けられたお料理は、スープにパン、魚介とお肉を少しずつたくさん楽しめるうえ、野菜も多くヘルシーなので、罪悪感が少ないのも嬉しい。
そんな人気のランチに舌包みを打ちながら雑談を交わしていると、朝のカタツムリの話になった。金森はフォークを止めた。
「ふーん、カタツムリねえ……そういえばこないだ取材行ったばかりだからタイムリーだわ。そうそう、ねえ知ってる?カタツムリの世界にはさ、オスもメスもないんだって」
「え?じゃあ恋愛とかしないわけ?ウソでしょ!?」
「やっぱそこだよねー。何でもね、お互いにオス・メスの役割を同時に果たすから、どっちも子供を産めるんだって。すごくない? それってめっちゃ公平で合理的だと思うんだよね」
金森さんは目を輝かせて笑った。久しぶりに見る笑顔だった。
「そういうのさ……最初から全部自分で持ってたら、恋愛とか仕事で苦労することも無いし、もっと気持ち的にも楽だったかも」
金森さんが言うと、やはり重みが違う。彼女はパンをちぎりながらさらに続ける。
「……でね、種類にもよるんだけどさ、『恋矢(ラブダート)』ってカルシウムの矢を、相手に刺してホルモンを注入する行動とかあるんだって」
「えっ!? リアル恋の矢じゃんそれ!ちょっとエモすぎじゃない? 恋愛要素、ちゃんとあるじゃん!」
「でしょ!それもただの矢じゃなくて、相手の体に刺さるとホルモンみたいな物質を送り込むんだって。それで相手の気持ちを『妊娠モード』にしちゃうとかさ。ロマンチックと凶器が混じっちゃてるあたり、ヤバいよね」
「なにそれ、カタツムリこっわw」
そう言いつつも私は、次の記事のテーマにも良さそうだなと思いながら、自然にスマホにメモしていた。金森さんは「今のさ、いいんじゃない?」と声を弾ませて続ける。
「人間も……そんなシンプルに『好き』ってぶっ刺せたらいいのにね。言葉だとか態度だとか、そんな面倒くさいものでまわりくどくしてるうちに、好きって気持ちが先に乾いちゃったら……意味ないもんね」
「金森さん……」
寂しそうに語る彼女の言葉に、胸の奥がじんとした。
「ごめんごめん、しんみりさせるつもりはなかったんだけどね。でねでね、カタツムリってさ、だいたい三年前後くらいは生きるみたいなんだ」
ほんとにうっかり出てしまった言葉だったんだろう。ビックリするくらい軌道修正してきた。私もその辺は触れないでおこうと、寿命の話に乗っかった。
「……え? 正直、もっと短いかと思ってた」
ていうか、ほんとに梅雨時期くらいしか生きられないものと思っていた。
「だよねー。私もそんなイメージだった。でもさ、彼らも長生きするためにさ、保湿をしてるわけよ、湿度が大事だから」
「お!そこで保湿!やっぱ保湿って大事だわー」
「ね!そういえばさ、こないだ新しい化粧水買ったんだけどこれがね……」
そこからコスメの話に花が咲いた。何より、金森さんが笑ってくれたのが嬉しかった。
——その日の夕方、家に帰ると、カタツムリはまだ同じ場所にいた。
「あ……まだそこにいたんだ」
夕陽が壁を橙色に染め、殻の表面もほのかに光っている。少し湿度は下がり始めていた。そりゃ殻に籠るわけだ。
その夜、私は鏡の前で、自分の顔をじっくり見た。目尻の小じわ、頰の少し乾いた感じ。
「いかん!保湿保湿!このお肌でしっかり生存していくのだ! ね? カタツムリくん!」そう笑うと、ほうれい線が気になって慌てて口を閉じた。
——翌朝、あのカタツムリはいなくなっていた。
壁には、うっすらとその軌跡だけが残されていた。恐らく夜の間に、どこか湿った場所へと移動していったのだろう。
殻に閉じこもるのもいい。でも、湿った風を求めて、ゆっくりと這い出す勇気も、悪くない。自分自身にも、誰か大切な人にも、ちゃんと「保湿」をして、乾かさないように。
いつか、私も誰かに「恋矢」を放てる日が来るかもしれないから——
