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掌編小説『ミルフィーユの喪失』

——僕は彼女に会う約束をしていた。

 どんな約束だったか正直覚えていないのだが、まあ会えばわかるだろう。スマホを開くも通知はゼロ。引っ越しの荷物を積んだ車を走らせて、ようやくたどり着いた実家。

 古い木造の家。玄関の前で待っていた母と一緒に車から段ボール箱を下ろしていく。僕の住む部屋には、ピアノが置いてあった。

「僕、ピアノなんかひけないよ?」
「あら、あなたが捨てられないからって置いてあるんだけど?」
「あれ?……そうだっけ?」
 捨てられないピアノって何だよ、そう思いながら荷物の箱を置いてると、部屋の窓越しに彼女を見つけた。

 ワンピース姿で髪を軽く結んでいる。僕の姿に気づくと、来てくれたんだ!とにっこり笑って手を振った。
「石黒さんの事、よろしくね」

……石黒さんって誰だ? 一緒に荷下ろしを手伝っていた母に尋ねた。
「結婚式の事でしょ? ほら、小洒落たあの何とかってケーキの事、話してたじゃない」

はあ……そりゃ彼女も三十にもなれば、結婚くらいするか……

「……って結婚!?」

——そこで目が覚めた。

 薄暗い部屋。実家の天井の梁が、一瞬歪んで見えた。寝ぐせだらけの頭のまま、枕元の眼鏡をかける。視界がはっきりすると、「夢だったのか……」と、さっきの光景を反芻するようにしばらく動けずにいた。

隣の部屋の仏壇に向かった。

 妻の遺影。写真の中でピアノを弾く香織は、優しく微笑んだまま。僕は妻が亡くなったことで、住んでいたマンションから実家に戻った。

「香織……」
小さく呟いて手を合わせる。線香の香りが、まだ少し残っていた。

……聞いてくれ香織。あの時、流産した子が会いに来てくれたんだ。
 三十年前だから、もし生まれていれば、ちょうどあのくらいの年齢だった。白いワンピースでさ、窓越しに笑って手を振ってた。あの子が僕たちの娘だったんだ……。
 
え? どんな顔してたかって?

 それは……

 夢の中では当たり前だったことが、目覚めた今はすべてが遠くなる。顔立ちも、声の高さも、あの笑顔も、急速にぼやけていってしまう……

——待って!消えないでくれ、どうか……頼むから、消えないで……

 どうして夢の記憶というのは、こんなにもすぐに薄れていってしまうのだろうか。もう一度、僕たちの娘に会いたい。もう一度……

 うつらうつらしてきた僕は、そのまま部屋に戻り、布団に横になった——


——古い木造の家の、ピアノが飾られた部屋で男が眠っている。

 静かな寝息だけが、明け方の空気を微かに揺らしていた。閉じた瞼の端から、一筋の涙がゆっくりと伝い落ち、その枕に静かな染みを残した——