短編小説『日傘を差す女』
——僕はいつものように軽くドライブして湾岸沿いを流していた。
どこまでも続く長い防波堤が、夏の空と日本海を区切るように細く伸びている。左はコンクリートの壁と、果てしなく広がる海。右も壁と、時折現れる小さな漁港の残骸。ただまっすぐ続く道はおよそ十二キロ。遮るものなど何もない道を、ただのんびりと走るのが最高に気持ち良かった。
午後三時半。陽はまだ強く、車内は少し蒸し暑い。ラジオはずっとノイズしか流さないがそれも良いBGMだ。
——と、前方に白い点が見えた。
あれは……人? 日傘を差した女のように見えた。
白いレースの日傘、薄い紺色のワンピース。裸足のままでアスファルトを歩いているようだった。いつもの景色に無い彼女に驚いた僕は、すぐそばに車を寄せて窓を下げた。
「すいません、乗りますか? ここから先、十二キロ何もないですよ」
彼女はまぶしそうにしながらゆっくり顔をこちらに向けた。日傘の影が顔の半分を隠している。
「ずっと、歩いてきました。……なんか捨てられちゃって」
「……とりあえず、乗ってください。この陽射しの中、水も持たずに歩くなんて熱中症にでもなったら大変だ」
「……ありがとう」
彼女は小さく頷くと、日傘を傾げて助手席のドアを開けた。影が車内に広がる。途端に、蒸し暑さが引いた。まるで海底の冷たい風がびゅうっと吹き込んだようだった。
「とりあえず、これどうぞ」
僕はペットボトルの水を彼女に差し出すと、車を再び走らせた。
彼女は「いいんですか?」と聞いてから僕が頷くのを見ると、コクコク……と静かに喉を潤した。すると、少し落ち着いたのか、膝の上に日傘を横たえ、窓の外の海をじっと見つめた。
「さっき言ってましたけど、誰に……捨てられたんですか?」
僕は少し間を置いて聞いた。彼女は外の景色を見たまま静かに答えた。
「マッチングアプリで今朝、逢ったばかりの彼。やっぱり今回も駄目だった。だから車から降りて歩き始めたわけ。……この傘だけ持って」
彼女は日傘の柄を指でそっと撫でた。
「この傘はね、少し古いけれど母の遺品なの。陽射しを遮るだけじゃなくて……母との思い出も詰まってる。でも彼はそんな思いの詰まったこの傘を、ダサいって切り捨てた。普通そんなこと言う?」
「それは確かに……ちょっとひどいですね」
「……でしょ? 人の想いが詰まったものをそんな簡単に切り捨てるような人なんて、この先絶対に上手くいくわけないじゃない?」
「だから降りたんですね」
「そう……でもたった一人で、何もない防波堤をずっと歩いてて思った。もう少しくらい話しても良かったんじゃないかって」
「そこの部分だけで判断するのは早急だった?」
「そうかもね……どこか焦ってた自分が居たのかもしれない」
話しながら時折、彼女の指が傘の柄を強く握るのが見えた。出会いを求める以上、それなりの迷いもあるんだろう。
それから少し走ると、ようやく人気のある建物が見えてきた。それは海沿いの小さな道の駅だった。
とりあえずそこで休もうと車を駐車場に停めると、彼女が何かに気づいた。同じ駐車場に停まっていた白いレンタカー。
彼女は「ちょっとごめん」そう言って僕の車を降りると、そのレンタカーに近づいていった。運転席の男も気づいたようで、驚いた顔をして、窓を開けると二人で何かを話していた。
僕はそんな二人の様子を見て、大丈夫そうだなと思い、車を再び走らせた。二人のそばを通り過ぎる瞬間、彼女は振り向いて僕に会釈した。その男も軽く会釈を返してくれた。
——こんなところで、二人の縁が切れなくて良かった。
ホッとした僕は、そのまま道の駅を出て、ギアを上げると、再びアクセルを踏んだ。
白いレンタカーの男は、彼女に向かって小さく笑った。
「……ていうか、さっきの車、だいぶ昔のやつだよね?」
「え?そうなの?私、車とか詳しくないからわからなかったけど……そういえばエアコン効きすぎてたのかな、車の中が少し寒かった」
「今どきセダンタイプのマニュアル車なんて、そうそう走ってないからね。あの人にはホントに感謝だな」
「……そうね、あの人がここまで送ってくれなければ、あなたとこうやってまた話せなかった」
「じゃあ、俺たちも行こうか」「ええ……」
二人のレンタカーは道の駅を出て、そのまま街の方へ向かった。
——道の駅の近くの草むらに、錆びた車が半分埋まったまま放置されている。セダンタイプのマニュアル車。
十年前に車の持ち主は事故で亡くなったが、その車を好きだったという理由で、家族が廃車にせず敷地に置いたままにしていたようだった。今は海風に吹かれ、錆びを浮かせたまま静かに佇んでいるだけだった。
——でも、明日はまた、この防波堤沿いをいつものように軽く流しているかもしれない。
遠くのほうでギアを上げ、アクセルをふかす音が聞こえる。

