短編小説『浜辺を歩く女』
朝起きると天気が良かったので、なんとなく浜辺に一人で行ってみた。
一番乗りだったのか、きめ細かな砂浜には足跡もなく、朝の光にきらめくほど綺麗だった。遠くから来る波の音だけが静かに響き、潮風がふわっと頰を撫でてくれる。
「うん、来てよかった」
風になびくワンピースが心地良いなあと感じながら、私はビーチサンダル履きの足を踏み出した。
波打ち際に足跡をつけながら歩くと、少し冷たい水が足の指の間をすり抜けていく。それがひんやりして気持ち良かった。青い空と白い雲、水平線が溶け合うような景色。こんな素敵な朝に、ふと昔のことがよみがえる。
——前の彼とここを歩いていた時に、「知ってる?潮風の匂いってさ、プランクトンの死骸の匂いなんだよね」なんて言わなくて良い話を聞かせてくれたのを思い出す。
あの時も、似たような朝だった。彼は隣に並んで歩きながら得意げにそんな話をした。科学的なトリビアを披露するのが好きだったのだ。少し子供っぽくて、いい雰囲気の時に決まって余計な一言を挟む人だった。
そういえば、その余計な一言のせいで、別れることになったんだっけ。
「ウケる」
私は小さく笑った。潮風は確かに、少しだけ生臭い。プランクトンの死骸が積み重なって、長い時間をかけて海の香りになっているのかもしれない。
でも、そんなことを知らなくてもいい瞬間がある。
彼はまたいつか、別の人とこの海辺に来たりするのだろうか。その時は余計な一言を言わなければ良いのだけれど。
私も誰かと来ることがあるのかもしれない。私はその人には言わないけれど、ここを歩いたとき、また彼の一言を思い出してしまうだろう。
「うん、いい風ー」
私は立ち止まり、なびいていた髪を耳にかけると、深く息を吸った。塩と、少しの死と、それでもなお美しい朝の匂いを吸い込む。
振り返ると、砂浜に私の足跡だけが、まっすぐに続いていた。あの時は二つ並んだ足跡と、二つの長い影があったのに……今日は広い砂浜に一人きり。
うるさいくらいだった彼がいないだけで、こんなに静かになるなんて。彼がいた左側がぽっかり空いたままで、まだ少し胸に隙間風が吹くような感じはあるが、前ほど寂しさは感じなくなってきていた。
小さな波が私の足元を優しく洗うと、残っていた足跡も少しずつ消えていった。
「足跡が消えてく……」
こんなふうに彼との過去も、波がサッと消してくれたらいいのに。晴れた空とは裏腹に少し曇った表情の私は、またゆっくりと歩き出した。
「あ……もう」
ビーチサンダルの隙間に小さな砂粒が入った感覚があった。
さざ波と海風の音が優しく響く静かな浜辺には、ビーチサンダルの砂を落とす私の影だけが長く伸びていた。

