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もやし─私的エッセイ無料版

私は毎日もやしを食べている。そこに理由はない。いや、少しある。安いから食べる。男の独身はとにかく野菜不足になりやすい。だからもやしを食べる。そのくらいの理由ならあったことに今気づいた。

なんとも人間とは、自分のことを分かっているようで分かっていない生き物のようだ。普段の暮らしの中には、多くの説明出来ない行動が存在していると思うと目眩がしてくる。トイレットペーパーはなぜかシングル、尻を拭くのは左手、靴は右から履くのに靴下は左から履く。振り返ってみると、いつも無意識だ。習慣とも違う。もっと「無意識の身体のプログラム」に近い。その「無意識のプログラム」は、まるで古い森の根のように地中深くに張り巡らされ、表層の葉や花びらを支えながら、決して日の光を浴びようとはしない。日々の営みの中で、私たちはそのコードを無視し、ただ実行するだけだ。心臓の鼓動が自動的に刻むリズムのように、息を吸うたび、吐くたびに、身体は自らのアルゴリズムを繰り返す。

そこで科学的に考えてみた。
1. 身体性のレベル(利き手・利き足・安定性の都合)
2. 学習・文化のレベル(子どもの頃の刷り込みや社会的習慣)
3. 神経科学のレベル(手続き記憶として脳に固定されたルーチン)
それらが重なり合って「右から靴」「左から靴下」「左手で尻」という一見バラバラなパターンを形作る。つまり「合理的に決めた」のではなく「身体と脳が最も快適に感じる型に自然収束した」ということ。
私がもやしを食べるのも、トイレットペーパーがシングルなのも、尻を拭くのは左手なのも、靴は右から履くのに靴下は左から履くのも、すべて自然収束したことになる。

なるほどと相槌をつくのと同時に、「身体と脳が最も快適に感じる型に自然収束した」という結末は、私にとっては何の発見でもなかった。答えになっていない。説明出来るようで説明出来ていない。つまりこれが人間というものなのだろう。
健康のためにジョギングやジムに通うのに、帰宅後にジャンクフードを大量に食べてしまう。環境問題を熱心に訴えながら、プラスチック製品を無駄に使い捨ててしまう。他人に「時間を大切に」とアドバイスするのに、自分はSNSや動画に何時間も費やしてしまう。
──ここで止めてもよかったのだ。だが矛盾は止まらない。
平和を望むと言いながら、些細なことで怒りを爆発させる。友情を大切に思うのに、忙しさを理由に友人からの連絡を無視する。愛を誓いながら、欲望に流され裏切ってしまう。努力を尊ぶと言いながら、成功者を妬み、怠惰を肯定する。未来を語りながら、過去の後悔ばかりに縛られる。矛盾は列挙しきれない。息をするたびに、人はまた新しい矛盾を生み落としてしまう。

人間とは、自己を解読しようとするプログラマーでありながら、永遠にバグを抱えたマシンなのだ。無意識の海に潜り、そこで見つけた真実が、日常の表面を少しずつ剥がしていく。結局、私たちはそのプログラムの一部として、永遠に踊り続けるしかないのかもしれない。だが、その踊りが、人生という名の詩を紡ぐのだろう。

結局、私は明日ももやしを食べるだろう。その小さな選択もまた、私というプログラムの踊りの一部なのだ。

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