#14 データは残っているのに、なぜ仕事の引き継ぎはうまくいかないのか
以前の記事で、営業として入社した私が、突然ブリーダーとして育種の仕事を任されることになった経緯を書きました。
そのとき、私が一番戸惑ったこと。
それは、専門知識が足りなかったことではありません。
「データは残っているのに、仕事のやり方が分からない」
という状態だったことです。
過去の試験結果もある。
品種のデータもある。
圃場の記録もある。
それなのに、
「では、次に何をすればいいのか?」
となると分からない。
今回は、実際に仕事を引き継いだ経験から感じた、育種という仕事の「引き継ぎの難しさ」について書いてみたいと思います。
「データが残っている」と「引き継げている」は違う
育種の仕事を引き継いだとき、過去の記録がまったく残っていなかったわけではありません。
むしろ、データそのものはかなり残っていました。
品種や系統ごとの特性。
圃場で調査した結果。
過去にどの個体や系統を選んできたのか。
数字としての情報は、確かにそこにありました。
最初は、
「これだけデータが残っているなら、なんとかなるだろう」
と思っていました。
ところが、実際に仕事を始めると、すぐに壁にぶつかりました。
例えば、ある系統の評価が残っていたとします。
しかし、その数字を見ても、
「なぜ、この項目を調査したのか?」
が分からない。
さらに、
「なぜ、この系統を残したのか?」
も分からない。
データはある。
でも、そのデータを取った目的や、その数字を見て何を考えたのかが残っていないのです。
つまり残されていたのは、
「何をしたか」という結果。
抜け落ちていたのは、
「なぜそうしたのか」という理由。
でした。
この違いは、実際に仕事を引き継いで初めて分かりました。
同じ「7点」でも、意味は同じとは限らない
育種では、植物をさまざまな項目で評価します。
仮に、ある特性について10点満点で「7」という評価が残っていたとします。
数字だけを見れば、
「7なんだな」
ということは分かります。
しかし、本当に知りたいのはその先です。
「なぜ7なのか?」
「何と比較して7なのか?」
「5ではダメなのか?」
「この特性をどれくらい重要視していたのか?」
「他の欠点があっても残した理由は何なのか?」
こうした情報がなければ、数字だけを受け取っても、前任者と同じ判断を再現することはできません。
育種では、一つの特徴だけを見て、
「これが一番良いから残す」
と単純に決められるとは限りません。
収量。
形。
色。
病気への強さ。
草勢。
栽培のしやすさ。
食味。
市場性。
さまざまな要素を見ながら、
「欠点はあるけれど、この特徴があるから残しておこう」
と判断することもあります。
だからこそ、最終的な数字以上に、
「そのとき、何を考えてその判断をしたのか」
が重要になります。
育種には、数字にしにくい判断がたくさんある
さらに難しいのが、育種には数字だけでは表現しにくい判断がかなりあることです。
例えば圃場を歩いていると、
「なんとなく、この株は気になる」
ということがあります。
葉の付き方。
草姿。
実の付き方。
全体のバランス。
言葉にしようと思えばできます。
しかし、何年も植物を見続けていると、すべてを一つひとつ言語化する前に、
「何か違う」
と感じることがあります。
そして、後から詳しく調べると、本当に面白い特徴を持っていた、ということもあります。
こうした経験に基づく知識は、経営学などでは「暗黙知」という考え方で説明されます。
野中郁次郎氏と竹内弘高氏は、組織の知識には、言葉や数字で表現しやすい知識だけではなく、経験などに根ざした言語化しにくい知識があることを示し、それらを組織の中で共有・変換していくことの重要性を論じています(※1)。
育種の仕事を引き継いだとき、
「データはあるのに分からない」
と感じた理由の一つが、まさにここにあったのだと思います。
前任者の頭の中には、
「この時期ならこう見る」
「この状態なら残す」
「ここは数字よりこちらを優先する」
という判断基準があった。
しかし、そのすべてがデータになっていたわけではありません。
本当に困ったのは、むしろ圃場の仕事だった
そして、私がさらに苦労したのが、データとは別の部分です。
それが、
「日々の仕事をどう回すのか」
ということでした。
例えば、
「この道具はここにあります」
「この機械はこう使います」
「この設備に問題が起きたら、この業者に連絡します」
という説明は受けていました。
ところが実際に仕事を始めてみると、
「それを、いつ使うのか?」
が分かりません。
道具の場所を知っていても、
どの作業の、どのタイミングで必要になるのかが分からなければ使えません。
機械の操作方法を教えてもらっても、
年間のどこでその機械が必要になるのかが分からなければ準備できません。
ハウスの設備。
農業機械。
資材の発注。
修理の依頼先。
圃場の準備。
パートさんへの作業依頼。
作物ごとの作業時期。
こうしたものが、一年間の仕事の中で複雑につながっています。
マニュアルにすると、
「機械Aの使い方」
は説明できます。
しかし、本当に必要だったのは、
「○月頃にこの状態になったら、次に機械Aを準備する」
という仕事の流れでした。
「点」の情報はあっても、「線」になっていなかった
今振り返ると、当時の引き継ぎで一番困ったことを、この言葉で表現できると思います。
「点」の情報はあっても、「線」になっていなかった。
データ。
機械。
道具。
業者。
作業方法。
一つひとつについては教えてもらっていました。
でも、
「いつ、何が起きて、その次に何をするのか」
という流れが分かっていませんでした。
農業の仕事は季節によって大きく動きます。
種をまく。
苗を育てる。
定植する。
植物を管理する。
調査する。
交配する。
収穫する。
種を取る。
次の世代へ進める。
しかも、天候や植物の生育によって予定がずれることもあります。
カレンダー通りに進む仕事ではありません。
そのため、
「作業方法」だけではなく、「判断するタイミング」まで含めて引き継ぐ必要がある
のだと、後から気づきました。
結局、自分で一年経験して初めて分かった
当時は、契約社員として在籍していた研究開発担当の方に、
「これはどうすればいいですか?」
「次は何をすればいいですか?」
と、その都度聞きながら仕事を進めていました。
そして一年間、実際に仕事を経験してみて、ようやく、
「あのとき教えてもらった機械は、ここで使うのか」
「この資材は、このために必要だったのか」
「だから、この時期に準備していたのか」
と、一つひとつがつながっていきました。
最初はバラバラだった「点」が、一年かけてようやく「線」になった感覚です。
これは農業や育種という、一年の季節の流れと強く結びついている仕事ならではの難しさもあると思います。
一度説明を受けただけでは、実際にその季節、その生育段階にならないと理解できないことが多いのです。
なぜ引き継ぎは難しくなるのか
もちろん、これは種苗業界だけの問題ではありません。
多くの会社で起こる問題です。
2025年版中小企業白書でも、技能承継を進めて属人的な業務を減らすことの重要性や、企業の成長過程で技術・ノウハウが属人化し、承継や標準化が課題になる事例が紹介されています(※2)。
特定の人しか分からない。
特定の人しかできない。
その人に聞かなければ仕事が進まない。
こうした状態を一般的に「属人化」と呼びます。
育種や栽培の仕事は、特に属人化しやすい仕事だと私は感じています。
なぜなら、
植物は毎年まったく同じ動きをしてくれないからです。
気温が違う。
雨が違う。
日射量が違う。
病害虫の発生も違う。
植物の生育も違う。
そのため、
「マニュアル通りにすれば必ず同じ結果になる」
とは限りません。
最後には、
「今年なら、こうする」
という人間の判断が必要になります。
その判断には、どうしても経験が関わってきます。
だからこそ、完全なマニュアル化が難しく、担当者個人に知識が蓄積されやすいのだと思います。
そして、引き継ぎには意外と時間がない
もう一つ感じたのが、
引き継ぎできる時間は、思っているほど長くない
ということです。
担当者が異動する。
退職する。
新しい担当者が決まる。
そこから引き継ぎが始まります。
しかし、有給休暇の取得などもあり、前任者と後任者が実際に一緒に働ける期間が想像以上に短くなる場合があります。
さらに育種の場合、
「一年間一緒にやれば、一年分の仕事を教えられる」
としても、現実にはそこまで長い引き継ぎ期間を取れるケースばかりではありません。
数週間で、
春の仕事。
夏の仕事。
秋の仕事。
冬の仕事。
をすべて実際に見せることはできません。
ここにも、季節産業ならではの難しさがあります。
だから私は、
退職や異動が決まってから引き継ぎ資料を作るのでは遅い
と思うようになりました。
自分が経験したから、今は「理由」を残すようにしている
自分自身が引き継ぎで苦労したからこそ、今は記録の残し方を少し変えています。
例えば、
「A系統を残した」
だけではなく、
「なぜ残したのか」
をできるだけ一言添える。
「○月○日に作業した」
だけではなく、
「なぜこのタイミングで作業したのか」
も残す。
数字だけではなく、
「今年は気温が高かったため、例年より○日早く判断した」
という背景もできるだけ書いておく。
すべてを完璧に記録することはできません。
それでも、
結果+理由
を残すだけで、次に見る人の理解はかなり変わると思っています。
写真や動画も、立派な引き継ぎ資料になる
文章だけでは説明しにくい作業もたくさんあります。
そんなときは、写真や動画を残すようにしています。
例えば、
「この状態になったら作業する」
という文章だけより、
実際の植物の写真が一枚あったほうが圧倒的に分かりやすい。
機械の操作も、
何ページもの文章を書くより、
数分の動画を撮ったほうが伝わる場合があります。
スマートフォンがあれば簡単に記録できます。
以前なら、
「引き継ぎ資料を作る」
と考えるとWordやExcelで立派なマニュアルを作るイメージがありました。
しかし今は、
写真。
動画。
Excel。
メモ。
過去のデータ。
そうしたものを組み合わせればいいと思っています。
重要なのは、きれいな資料を作ることではありません。
次の人が困ったときに、答えにたどり着けること。
それが一番大事です。
AIも、技術継承に使えるのではないか
最近では、ここにAIも使えるのではないかと考えています。
例えば、日々の作業内容や判断理由を文章で残そうとすると、それ自体が負担になります。
忙しい時期に、
「今日の判断理由を文章にしてください」
と言われても、なかなか続きません。
でも、
「今日はこの株を残した。理由は草勢が強くて、果形も良かったから」
とスマートフォンに話し、それを文字に起こして整理するのであれば、負担はかなり減らせます。
さらに、蓄積した記録を検索し、
「去年、この時期に何をしていた?」
「この症状が出たとき、以前はどう対応した?」
と探せるようになれば、過去の経験を使いやすくできます。
もちろん、AIに育種の判断そのものをすべて任せられるとは思っていません。
むしろ重要なのは、
人間の経験をAIに置き換えることではなく、人間の経験を失わないためにAIを使うこと
なのではないかと考えています。
完璧なマニュアルを作る必要はない
引き継ぎについて考えると、
「すべてマニュアル化しなければ」
と思いがちです。
しかし、育種や栽培の仕事をすべて文章にするのは、おそらく不可能です。
私自身も、そこまでは目指していません。
今の目標はもっと単純です。
「次の人が、自分と同じところで困らない程度に残す」
それだけです。
自分が一時間悩んだことを、一行のメモで次の人が解決できる。
自分が業者を探すのに半日かかったなら、連絡先を残しておく。
自分が一年かけて気づいたことなら、写真と一言を残しておく。
それだけでも、次の人のスタート地点は大きく変わります。
まとめ
仕事を引き継いだ当初、
「データがこれだけ残っているのに、なぜ分からないんだろう」
と思っていました。
今なら、その理由が少し分かります。
残っていたのは、仕事の「結果」だったからです。
本当に引き継ぐ必要があったのは、
何をしたのか。
なぜそうしたのか。
いつ判断したのか。
何を見て判断したのか。
その次に何をするのか。
という、仕事の「流れ」と「考え方」でした。
育種は、人の経験や感覚を完全に数字へ置き換えることが難しい仕事です。
だからこそ、
データを残すだけではなく、経験をどう残すか。
これからの種苗業界では、そこがますます重要になっていくのではないかと思っています。
私自身、まだ試行錯誤の途中です。
それでも、自分が経験した引き継ぎの苦労を、次の人にはできるだけさせたくありません。
そのために、
「結果だけではなく、理由を残す」
「文章だけではなく、写真や動画も使う」
「退職や異動が決まる前から、普段の仕事を記録する」
ということを、少しずつ続けています。
技術を残すということは、データを保存することではなく、「なぜそうしたのか」を次の人に渡すことなのかもしれません。
※1 出典:Nonaka, I. & Takeuchi, H. (1995), The Knowledge-Creating Company: How Japanese Companies Create the Dynamics of Innovation, Oxford University Press.
※2 出典:中小企業庁「2025年版 中小企業白書 第2部第1章第4節 人材戦略」ほか。技能承継による属人的業務の削減や、技術・ノウハウの属人化と承継についての事例が紹介されています。
https://www.chusho.meti.go.jp/pamflet/hakusyo/2025/chusho/b2_1_4.html
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「育種って意外と面白い」「また読んでみたい」と思っていただけたら、チップで応援していただけるとうれしいです。
これからも“たねやのなか”だからこそ書ける話を届けていきます!