「湯けむりミク 逆観察日記」序章
イントロダクション
桜湯の暖簾をくぐったのは、ただ風向きに流されて過ごしていたから。
居場所などなく、人生の時間が余って、行き場をなくした日々。
外の風は冷えていたけれど、暖簾の向こうから流れてきた湿った空気が僕を招き入れた。
脱衣所にはさまざまな人たちがいる。裸のつきあいとはよく名付けたものだ。
隠すものなく人と人が過ごす場所。外の風とは違う蒸気が僕を温め始めた。
不意に視線を感じた。
金髪の髪でフルーツサンドを片手に女性が座っていた。年齢は十代とも二十代ともつかない。
白い湯気が彼女の周りを包み、輪郭をぼやけさせている。
――あとで知ったことだが、その子は常連たちに「ミク」と呼ばれていた。
浴槽に身を沈めると、耳を澄ます彼女の姿が見えた。
まるで湯気に混じる音を拾おうとしているかのように。
湯がはぜる音、木桶の触れ合う響き、人々の心の声を聞き分けるように。
それらを一つひとつ確認するように首を傾けていた。
湯上がりに牛乳瓶を傾けるときも、彼女は誰とも話さず、ただ湯気の余韻をまとって立っている。
光に透ける髪から滴った雫が、床板に小さな模様を描いた。
僕は思わず日記帳を取り出し、こう書き留めた。
――ミク。湯けむりの中のきみは幻なのか。それとも僕の幻想なのか?
銭湯を出る頃には、冷たい夜風さえも湯気のように揺らいで見えた。
そして僕は、これからミクを観察し続けることを、ひそかに決めたのだった。

つづく
