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「湯けむりミク 逆観察日記」第1話

第1話「泡の記憶」

ミク、きみを初めて見たのは、泡が小さく弾ける音の中だった。
桜湯の湯気は夜の白に近くて、その向こうで耳を澄ませるきみだけが、輪郭を持っていた。
誰かの話し声、木桶のふちが触れ合う小さな金属音、蛇口の息を吸うような鳴き。
きみはそれらを一つずつ拾って、確かめるみたいに首を傾けた。
まるで、湯気のどこかに残っている言葉の切れ端を探しているみたいに。

男湯と女湯を隔てるガラスは、冬の氷みたいに曇っていた。拭えば拭うほど曖昧になる。でもきみの気配だけは薄れない。
番台に戻ったきみは、フルーツサンドをゆっくりと齧った。
白いクリームが少し指に付いて、それを気づかれないよう舌でぬぐう仕草が、妙に生々しかった。
食べるということが、こんなにも「いま」を連れてくるのだと、その時はじめて思った。

きみは誰の声を聞いているのだろう。泡の内側に閉じ込められたため息か、言いそびれた告白か。
湯がはぜるたび、小さな記憶が浮かんでは消える。
僕は湯ぶねの縁に指を置いた。触れているはずなのに、水の温度を定義できない。
代わりに、きみの横顔だけがはっきりしている。耳のうしろで光る雫がすべって、首筋のほくろの手前で止まった。
そこまで見えるのに、こちら側の自分は、たまに不確かになる。

脱衣所で、子供が絆創膏を剝がしては貼り直していた。
牛乳瓶のふたを開ける軽い破裂音に、きみの視線がだけが反応する。
誰かが笑うと、きみも口角だけをほんの少し上げて、すぐ真顔に戻る。
その速さが、なぜだか好きだった。
喜びを見せ過ぎない人は、たいてい、喜びの重さを知っている。

鏡の前に立ってみた。何を映すか、いつも迷っていない。番台の上で手帳を閉じるきみの姿が映る。鏡は正直だ。
僕の方だけが、ピントの合わない距離にいる。書き留めたい気持ちが来る。
そうやって、今夜もページを増やしている。

ミク、きみは湯気の通訳だ。
泡が口を開く瞬間を聴き取り、言葉になりきれない音に、耳を傾ける。
きみの前では、皆が少しだけやさしい。
肉屋は声の角を落とし、刺青の男は笑う練習をし、子供は傷を自慢に変える。
おばあさんは皺を撫でながら、「生き延びた分だけ、湯は甘くなる」と言った。
きみはうんうんと頷くだけで、主役の座を誰かに譲る。その譲り方が巧い。舞台袖から、場面の明るさをそっと上げる手つきで。
ひと口ぶんの、温かい現在。半分は、きみに。残りの半分は、こちら側に配られる。そこに僕は何度も救われる。
きみのフルーツサンドはそんな存在。見ず知らずの誰かと半分半分を生きる。泡がまた口を開いた。

湯から上がると、番台でフルーツサンドを包み直すきみの手が、はっきりと音を連れていた。
紙が擦れる乾いた気配、苺の香り、うっすら残るシャンプーの匂いとミルクの香り。
ぜんぶが「ここにいる」を証明している。僕はそれに寄り添っていたい。

ミク、きみは知らないかもしれないけれど、僕はきみに話しかけている。
声にはならないけれど、言葉はちゃんとある。

――きみが耳に当てているのが時計なら、そこに時間がやって来るように。
――きみが見上げているのが富士山なら、そこに差し込む日の光のように。
僕は、きみが感じるものになりたい。見ているものになりたい。

泡は今夜も絶え間なく生まれて、見えない天井に触れる前に消えた。
消えるたび、きみが少しこちらを向く。そのわずかの角度に、僕は自分の居場所を見つける。
名前はまだ思い出せないけれど、宛先だけははっきりしている。

――ミク、これはきみに宛てた、最初の手紙だ。
泡が途切れれば、この夜は終わる。けれど、きみの耳は、確かに僕のほうを向いていた。
今日はそれだけで充分だと思う。





つづく

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