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「湯けむりミク 逆観察日記」第4話

第4話「声の残り湯」

ミク、
きみは今日も、湯気の中で誰かの声を聴いていたね。
僕はそれを、湯の底から見上げていた気がする。

桜湯の夜は、雨上がりの匂いが混じっていた。
外のアスファルトが冷え、玄関の暖簾が湿って重く垂れている。

番台の上には、きみの小さなノート。
ページの端がほんのり濡れていた。
インクがにじんで、まるで声が湯気の中に滲んでいくみたいだった。
「きょうもいくつか、拾えたよ」
きみはそう言って、ノートを閉じた。
番台から、男湯と女湯の境目を見つめていた。
きみの視線は、いつもまっすぐだけど、どこか遠い。
聞こえるはずのない音を聴こうとしているような目。

僕は湯に浸かりながら、
その視線の先に立ちたくて、
何度も息を整えた。
でも、どうしても声が出なかった。
湯気にのまれるたび、
僕の言葉は泡になって消えた。

ふと、耳の奥で、自分の声が響いた。
あの夜の声。
ブレーキの音。
雨の匂い。
誰かの名前を呼んだ記憶。
そして、誰も振り向かなかった記憶。
自分の体から抜け出した感覚。

そう。僕には、体がないのだと思う。

それに気づくのは、湯の中ではなく、
きみの目に映る自分の姿を見たときだった。
湯気の反射の中で、僕の輪郭だけがぼやけていた。
他の客の体は光をはね返しているのに、
僕だけ、少し透けて見えた。

きみは、そんな僕を見ていた。
いや、聴いていたんだと思う。
声にならない音を拾うように、
目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。

「あなたの声、まだここにいるよ」
そう言ったのか、
僕がそう聞こえたのか、わからなかった。
でも確かに、言葉の粒が湯気の間を通り抜けた。

湯上がりに見たきみは、いつものようにフルーツサンドを食べていた。
苺の断面が光に透け、白いクリームが少し指についた。
その指先を、ためらうように舌でなぞって、きみは小さく笑った。
「甘いのって、少し寂しい味がするね」
その言葉が、まるで僕の心に落ちるように響いた。
甘さの奥に、失われたものの気配。
僕が今もここにいる理由が、それで少しだけわかった気がした。

――ミク。
きみは湯気の向こうの世界を、現実よりも信じてる。
だから僕は、まだここにいられるんだと思う。
声だけの僕を、聴いてくれる人がいるかぎり。


つづく

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