「湯けむりミク 逆観察日記」第3話
第3話「湯気の輪郭」
ミク、
きみを見ていると、
まるで湯気そのものが、ひとつの生き物みたいに思える。
今日の桜湯は、少し賑やかだった。
いつもの常連たちが笑い合いながら、タオルを肩にかけている。
桶の音がポン、と弾んで、誰かの笑い声と混ざる。
男湯からは、肉屋の朗々とした声が響いてきた。
「肉の断面は命の記録だ!」
湯気の向こうで誰かが「また始まった」と笑い、
それを聞いて、きみの肩がほんの少し動いた。
笑っていたのかもしれない。
けれど、その笑顔はすぐに湯気に溶けた。
きみは、ノートを指先でなぞった。
まるで音を探してピアノを弾いているみたいに。
湯の泡が、リズムを持って弾けていく。
ひとつ、ふたつ──そのたびに、きみの唇が何かを数えていた。
「……誰かの音が、消える前に。」
その小さな声を、僕は確かに聞いた。
僕は思わず、ガラス越しに身を寄せた。
白い湯気に包まれた空間の中、
きみだけが“輪郭を持つ湯気”のように見えた。
ぼやけるどころか、
そこにしか焦点が合わない。
ほかの誰も見えない。
世界がきみの周りで、音も形も変えていく。
もしかすると、
僕が見ているミクという存在は、
湯気が見せている幻なのかもしれない。
いや、それでも構わないと思った。
幻に救われる夜があってもいい。
現実がどんなに冷たくても、
湯気の中にはまだ、あたたかさの記憶がある。
「観察、ってね。」
きみが番台に座りながら、ふとこちらを見た。
「相手を見ることじゃなくて、自分の見方を確かめることだよ。」
そう言って笑った。
僕は、返事をする前に、胸の奥が熱くなった。
言葉が、湯気に吸い取られていった。
外に出ると、夜風がまだ冷たい。
それでも、不思議なことに、
体のどこかがぽっと光っていた。
きみの言葉が残した熱が、
まだ僕の中で形を変えずにいる。
――ミク。
きみの笑い声は、湯気の形をしている。
僕がいなくなっても、きっと誰かがそれを見つける。
だから今夜も僕は、きみの声を追いかける。

つづく
