アメリカらしさとは何か?/映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』感想
はじめに
今回は昨年公開のアレックス・ガーランド監督の映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』の感想を。架空のアメリカ社会で起きる内戦という、フィクションと割り切るには妙にリアルな設定を用いて、アメリカという国家そのものの根幹に迫る力作である。
現実の延長線上としてのフィクション
わざわざ言うまでもないことだが、本作は昨今のアメリカ社会において深まる分断に対し、明確な警告をする映画である。FBIを解散するなど強権的な大統領は、明らかにドナルド・トランプを意識している。しかしこの映画は、BLM運動から始まったここ数年の分断の問題に限った話を扱っているわけではない。
この映画は、そもそもアメリカという国家が持つ複雑なアイデンティティ、アメリカらしさとは何か、という問題に切り込む話であり、赤いサングラスの軍人の「お前はどんな種類のアメリカ人だ?」というセリフはそれを端的に示している。あのシーンで印象的なのは、出身地を聞かれた同僚の中国人が、香港と答えた瞬間に射殺されたことだろう。日本のような国家とは異なり、作中のアメリカにおいて、”アメリカで生まれたこと”以外にアメリカらしさを表現できるものなど存在しないのである。
かつてリンカーンが「内部分裂した家は立ち続けることができない」と言ったように、アメリカの最大の弱点はその内側の不安定さにある、ということだろう。日本で生まれ育った私が知るアメリカなどたかが知れているが、この映画を見るアメリカ人の胸中が、決して快適でも穏やかでもないことは容易に想像できる。
アメリカに限らず、日本を含めた昨今の世界情勢を見ていても、この映画は現状から地続きのあり得なくはない未来を描いており、なんとも言い難い居心地の悪さを感じざるを得ない。そしてその居心地の悪さこそが、我々への警告として最大限に機能している。
ジャーナリストという視点
この映画は、予告を見て想像していたものと違い、戦争をミクロな視点で描く。リーダーによる政治的駆け引きや、戦争の大局となるシーンはなく、ジャーナリスト(カメラマン)から見た戦争という視点が徹底されていた。したがって規模感としては控えめで、やや拍子抜けさえしてしまった。
なぜもっと戦争映画らしく描かなかったのかと言えば、この映画において戦争そのものの描写や勝ち負けは重要ではなく、なぜ戦争が起こったのか、そしてそれによってアメリカ社会がどう変容したのか、ということこそが重要だからだろう。本作において後者はジャーナリストという視点を用いて巧みに描かれるが、前者は描かれない。それはおそらく、すでに多くのアメリカ人がこのままだと最悪の場合に内戦になるというシナリオを、うっすらと共有しているからだろう。だから戦争へのエスカレーションの省略が私にとって物足りないものでも、それは仕方のないことなのかもしれない。
そもそもジャーナリストとは社会的関心の高い事象を取材・記録し、報道する人のことである。そこに個人の主観が入ることは避けられないが、我々はその根底にあるものは、権威的な事実として認識する。本作においても彼らの視点から物語を見るという構成にすることで、ドキュメンタリーのようなリアリティと重みを演出している。
また、取材への道中で様々な人々や前線の戦いを描くことで、ロードムービー的な楽しみ方もできるようになっている。特に印象に残ったのは途中で訪れる街において、”戦争なんて起きていない”ように振る舞う人々が、軍人の監視の下で生活しているという痛烈な皮肉である。
主人公たちを突き動かすものは、真実を伝えたいという正義感ではなく、まだ誰も撮ったことのないショットを撮りたいという、極めて自己実現的な欲求である。だからこそ、ジェシーは自分を庇って撃たれたリーを迷わず撮り、手当もせずに大統領の最期を撮りに向かった。戦争の終結という最高のショットを撮ったジェシーの、興奮と虚しさが入り混じったような表情こそ、本作で描かれる内戦の空虚さを何よりも示すものである。
終わりに
映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』は戦争を描く映画としては物足りないが、そのアメリカ社会の描き方は秀逸である。私がもっとアメリカについて詳しければ、より楽しめたかもしれないが、それはそれでより苦しい視聴体験になってしまうかもしれない。
