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アニメ『天幕のジャードゥーガル』第六話 感想

なんかすごいアニメが生まれたな、というのが第六話をみた感想。
ここまで登場人物の心情を掘り下げたものがあっただろうか?

……と素直に物語には感動したところで、ちょっと引っかかるところがあり……。物語は物語として楽しめばいいから、これは雑念なんだけど、テュルクびいきの自分にはどうしても引っかかる!

それは巫術者、つまりダイル・ウスンを「カム」と言っている点。
あれ、日本語にするのに困る存在なんだよね。

自分の個人的な感覚で言うと、あれはみこ(巫女)なんだ。
神式の結婚式に出た人なら皆、見たことあると思うけど、しゃん、しゃんと鈴を鳴らして舞う巫女と、太鼓をたたいて舞うダイル・ウスンはよく似ている。神に何かを願う・ご報告するという源流は同じだったのでは?と思えるくらい。

しかし、日本語で巫女みこというと、漢字に現れているとおり、現代ではもっぱら女性を指す。北ユーラシアでは男性が多いから、「巫女」と日本語に訳してしまうと違うイメージがついちゃうんだよね。

トランス状態になって自分の魂をとばし、神に会いに行ける能力者を、一般的には、「シャマン」と言うと思うのだが、この物語では「カム」と言っている。ちなみに、当時のモンゴル語では「ボエー」だ。現代モンゴル語なら「ボー」。「カム」はテュルク系の言葉。漢文資料や日本語で、堅めな言葉で言えば「巫覡ふげき」かな。

ちなみに、クルトカン個人はメルゲン、「弓の名手」と呼ばれているが、メルキト全体がメルゲンの民とは呼ばれていない。メルキトは「森の民」と呼ばれることはあるが、それは森の近くに住んでいるからであり、あくまでもモンゴルの一部族の遊牧民で、森のウリャンハイのような狩猟民ではない。強いて言えば、モンゴル人すべてが「メルゲン」だ。アルメニアの歴史家グリゴール・アクネルツィ(1250頃?~1335頃?)がモンゴルのことを「弓手民族」と呼んでいるくらいだから。

とはいえ、「シャマン」という語を避けたのはわからないでもない。日本のアニメ勢だと『シャーマン・キング』のイメージがつきすぎているからじゃないかな?
巫女もシャマンも、違うイメージが付きすぎているとすると、当時のモンゴル語である「ボエー」でもよかったんじゃない?と思えるんだよね。なんで「カム」? その方が一般的だと思われたからかな? それとも、何か意図があるのかな?

アニメ自体は楽しめ、感動したのだが、上のような雑念がムクムクと沸きあがってきてしまった(笑)。

アニメだけ見るとチンギス=ハンがメルキトを執拗に追いかける理由が語られないので理不尽に見えるのだけれど、史料にはチンギス=ハン一家側の抱く恨みの根源がいろいろ書きつらねてある。勝った側の論理は、正史として後世に残るものなので。

今回の夏コミで出す「チンギス=ハン紀」[5]にも、中央アジア遠征のチンギス=ハン側の言い分(オトラル事件に対する言い分)がつらつらと書いてある。これは、「なぜチンギス=ハンはトゥースであんな酷い事をしたのか?」と憤った人への一つの答えになるのかもしれない。

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