方位磁針はエマ・ワトソンを指す。
「嫉妬は、自分と近い関係性にしか生まれないんだよ。」
嫉妬について、そう語られていたことを思い出した。
そして、「嘘だ」と思った。
なぜなら。
その時、私の嫉妬の対象となっていたのは、エマ・ワトソンだったからだ。
『ハリーポッターと賢者の石』でハーマイオニー役として一躍有名となり、それから美少女から美女として成長し、数々の映画に出演。知らない人はほとんどいない女優。
「人間」で「女性」であること以外は、はるか遠い存在だ。
「その時」それは大学に入って初めての夏休みに起こった。
夏休み中に、人生で初めての彼氏ができた。皮肉屋だけど優しくて、小柄で、なんだかなめらかな顔立ちをしていた。
初めての彼氏と、初めてデートの約束をしたその日から、私は完全に舞い上がっていた。大学に入学するまでは、おしゃれをしたことがなかったのだ。デート前日は、いつもより心臓が3cmぐらい持ち上がっていた気がする。何を着て行こうか、靴はどうしよう、どんなアイメイクで行こうか、髪型はどうしようと、結んだり下ろしたり、もう、悩みに悩んで、ファッション雑誌を読み込んだ。
そして、20歳の私が考えられる限りのありとあらゆる可愛いを詰め込んで、私の初めての彼氏に会いに行った。
彼とは付き合う前も、友達のように気安く話せる間柄で、いつも部室などで会っていた。それでも、恋人同士に昇格するとやはり意識してしまうのだ。いつもと違う私に気づいてくれるだろうか。ドキッとしてくれるだろうか。可愛いと思ってくれるだろうか。待ち合わせ場所の品川駅で、いつもより秒針がピンと張っているように感じながら、彼が来るのを待っていた。
やがて、
「よぉ〜!お待たせぃ!」
と、彼が現れて、私も安堵した。実際に現れてみると、彼は今までの友達モードと変わらない様子で、あんなに緊張していた自分の方が恥ずかしくなった。
「しながわ水族館、こっちみたいだよ。」
案内板を見てそう話しながら、私は少し期待した。いつもと違う私なのだ、何か気づいて、言ってくれるかもしれない。てか、言ってくれ。こっちはこんなに、君に会いたくて、準備したんだ。そう願うように黙っていると、彼が口を開いた。
「エマ・ワトソンって可愛いよな〜。」
え……エマ・ワトソン?
あまりに唐突に出てきたエマ・ワトソンに困惑していると、彼はこう続けた。
「ああ、昨日エマ・ワトソンが夢に出てきてさ、可愛いなあと思って。」
…なんというデリカシーのない男だろう。君の初彼女が前から君とのデートを楽しみにしていたのだよ?前日から君に会うために、服とか迷って、髪型も結んだり下ろしたり、何持っていけばいいかなとか、迷って、健気のかたまりがここに、目の前に立っているのだよ?目の前にそんなまっすぐな彼女がいるのに、なんでデートの時の第一声が、昨晩夢に出てきたエマ・ワトソンやねん。ちがうじゃん。ちがうじゃん。出るところからやり直してこい!
って、今なら言える。
でも、当時はただただ彼の言葉を、直球で受け止めてしまった。
そして、彼の夢を私から奪った、エマ・ワトソンを恨んだ。
エマ・ワトソンさん。あなたは確かに美しく聡明で、世界中から愛される女優かもしれない。私だってあなたが好きだ。だけど、私の恋人のデートの前日の夢を奪う必要ないじゃない。
強烈にエマ・ワトソンになりたくなった。エマ・ワトソンぐらい可愛くて美しければ、初デートで、そんなことを言われることはないだろう。よっぽど不届者じゃない限り、彼氏は前日にナタリー・ポートマンではなく自分の夢を見てくれるだろう。
その気持ちが「嫉妬」であることに、私はうすうす気づいていた。「嫉妬」は醜いもの。可愛い女子がすることじゃないもの。ましてや遠い国の女優、エマ・ワトソンになんて、ナンセンスだ。だから、この気持ちを抑えつけていた。すると、言語化できない何かもやのようなものが残ってしまい、初デートだというのに浮かない顔になってしまった。彼がそれに気づかないのも、なんだか悔しかった。
それでも、その日のデートは楽しかった。水族館に行ってクリオネの上下を眺めていたら、さっきのもやが溶けていくようだった。本屋に立ち寄ったり、カフェで話したり、帰る頃にはちょっと手が触れてドキドキしたり…
その時にはもう、エマ・ワトソンのことも許す気になっていた。
その初デートから15年になる。今考えると、彼だって初デートで緊張していたのだ。仮に当時の私が可愛かったとしてもそれを口に出して言えるはずがない。照れからくる皮肉屋なのだ。
そして、その時の彼が、今の夫…とか言える人に嫉妬してしまう。
実際、彼とは半年にも満たず別れてしまい、その後3ヶ月間失恋から立ち直れなかった。
その失恋から2年近く経った時。確か丁度今と同じ頃、3月に入りそうな時期だった。大学の同じ専攻の飲み会で、佐原君という男性に出会った。大柄でいわゆる「いい人」。男女分け隔てなく、誰にでも優しい感じの人で、一人一人のことをほめてくれる。だからこそ、異性として意識をすることはなく話すことができた。
佐原君が、とある「チャラい」男子に、「気になってる子とか、いるの?」と絡まれて曖昧に笑うも、しつこく聞かれてこう答えた。
「隣のクラスの、後藤さんかな。」
チャラい男子が「そこ来たか〜〜〜ウィ〜〜!」という特有の鳴き声を上げる。
後藤さん…彼女は、控えめでこういった飲み会に来るタイプの子ではない。私も話したことはなかったが、成績が専攻内で一番であることや、眼鏡をかけていて文学が好きな色白で可憐な女性…であることは知っていた。そういう子が好みなのだ。というか、佐原君にも好きなタイプとか、あるんだ。
飲み会の途中で佐原君は私と隣の席になり、話し込むようになった。彼とは、かなり読書傾向が似ていて気が合うことがわかった。佐原君は小説も書いているということに興味を持った。でも、どんなに親しくしても(彼は後藤さんが好きなんだよな…)という思いが、邪魔をしてしまう。
二次会まで私は佐原君とばっかりしゃべっていた。
それなのに、解散後、なぜか私は、心の中で佐原君に悪態をついていた。
(みんなにいい顔をして!気は合うかもしれないけどそういうところあんまり好きじゃない!)
(なんか太りすぎてるし、私のタイプじゃない!)
その心の中の悪態の声で、何かを覆い被せてるような気がして、苦しかった。なんで、彼は何も悪くないのに、悪態をついてしまうのだろう。
この悪態を、一枚一枚、めくっていった。
何が出てくるのだろう、自分の本当の気持ちって、なんだろう。
その時、自分の中の方位磁針が「ぴーん!」と張ったのに気づいた。
ある方向を示したのだ。その、方向は…
「私は、佐原君が好きで、後藤さんに嫉妬してる。」
後藤さんは聡明で清楚で可憐で、私なんかじゃ、到底及ばない存在。物理的にはクラスが異なるだけでエマ・ワトソンよりも近いけれども、精神的には遠い存在だ。そんな彼女に、嫉妬を向けるなんてあまりにも申し訳ない。そんな後藤さんに、嫉妬してしまっている。
それは、誰にでも優しい佐原君に、気になる子として思い出して欲しかったたからだ。佐原君は、その愛されやすいフォルムや人への接し方が魅力的ではあったが、それだけでは好きにならなかった。でも、二次会の時、何かの話のきっかけで、『伊豆の踊り子』の冒頭をそらんじていた。
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。
その声が、まさに強い雨足のように私の心に入っていった。その声をずっと聞いていたいな、って思ったんだった。彼が後藤さんを好きなら、仕方がないけれども、後藤さんと付き合う前なら私と話しても罪にはなるまい。
私は、佐原君にメールを送って、映画に誘った。彼は快諾してくれて、会うことになった。そして、その1回のデートだけで、私たちは付き合うことになった。
そんなこともあったなあ…と懐かしく思い出す。
そして、その彼が今の夫だ…と言える人にやっぱり嫉妬してしまう。
佐原君とは5年間、大学卒業後もしばらく付き合っていたが、結婚となると色々あって難しくて、結局お別れすることになってしまった。それでも、私の人生を語る上で外せない人だ。
佐原君と付き合っている時も、その後も、そしてようやく「今の夫」と出会って結婚しても、私は対象が近い、遠いに関わらず嫉妬を繰り返した。その度に相手に呆れられていたものだった。
「そんな、可愛いっていったって芸能人は画面の中だけだよ。」
「二次元と三次元は違うじゃん。」
「なんにでも嫉妬するなよ。」
そう言われても、嫉妬の癖は治らなかった。
嫉妬するたびに、方位磁針が「ぴーん!」となったのを思い出す。
そして、自分の素直な気持ちに目を向けるのだ。
嫉妬は、私が欲しい方向を示してくれる。
画面の中の芸能人は美しいかもしれない。けれどもそうじゃなくて、私に可愛いと言って欲しい。だから、対象が遠くても嫉妬するんだ。
初めての彼氏とのデートの時も、エマ・ワトソンを指した方位磁針に目を向ければよかった。彼にも、私が夢に出てくるくらい、楽しみにして欲しかった。素直にそう言えば、可愛いと思ってもらったかもしれない。
今なら、そう思える。
今、あまり芸能人には嫉妬しなくなった。
その代わりに、嫉妬している人たちがいる。
自分がどうやったって出せない、素敵な感性で物語を綴る人。
みんなに愛される文章を書いて、賞賛される人。
自分にはない着眼点を持つ人。
そういう人たちに、方位磁針が「ぴーん!」と張る。
私は、その気持ちに驚く。
「私って、そっちに行きたいんだな。」
だから今、私は自分だけの文章が書けるように、感性を常に研ぎ澄ます訓練をしている。いつか、自分だけの着眼点で、みんなに愛される文章が書きたい。
嫉妬の方位磁針は、私の行きたい方向、立ちたい位置を指し示してくれるのだ。
何に嫉妬するかが、私の望む方向。
だから、私はずっと、この方位磁針を手のひらに握っているだろう。
ちなみに今、方位磁針の先に誰がいるかは…
まあ、黙っておくことにしよう。
(了)
皆様、読んでいただきありがとうございました。
私の嫉妬に寄せる思いを書きました。
※佐原君と後藤さんは仮名です。
この作品は、斉藤ナミさんの新連載にあたって池松潤さんが企画された「 #嫉妬祭り 」に参加して執筆したものです。
斉藤さん、初めまして。新連載おめでとうございます。
池松さん、初めまして。素敵な企画をありがとうございます。お時間のある時にフィードバックをお願いできますと幸いです。 (#フィードバック希望)
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皮肉屋の彼のことは、ここでも言及してました。
久しぶりの更新にはなりましたが、本当に読んでいただきありがとうございます。スキ・コメント大歓迎です。引き続きよろしくお願いします。
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