人事部付 真田雪乃の議事録<2-1 端っこのMVP>
第二章のあらすじ
入社2年目の春、人事部付の真田雪乃は、社員総会のあと、同期たちとともに居酒屋に集まっていた。
にぎやかな大人数の会話はあまり得意ではない雪乃は、気の置けない丸田茉莉也と、端っこのテーブルで静かに談笑していた。
そんな雪乃のもとに、社員総会でMVPとして表彰され、真ん中のテーブルでにいた同期、出須賀営業所の仲介営業・星原直哉が、ふいに顔をのぞかせる。
「ちょっと、静かな場所に行きたくてさ」——静けさを求めてきたその一言が、雪乃の世界を静かに揺らし始める。
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第二章 営業がわからない
第一話 端っこのMVP
「喫茶ピリオド…やはり、黒木さんは人類に終止符を…」
「え…?なんの話?」
茉莉也の惚気話の最中につぶやいた雪乃の一言で、茉莉也は吹き出した。
「黒木さんって、クリスマスに…終わらせるカフェ、作ってなかったっけ。」
「仕事終わらせ喫茶…のこと?」
「…それだ!何を終わらせるのか、ずっとモヤモヤしてた」
茉莉也は少し上を見上げて考える仕草をした。「喫茶ピリオド」という名前で二人のカフェを開きたい…という素敵な夢を、黒木さんが打ち明けてくれたが、なぜ「ピリオド」なのかは明かされないままなのだそうだ。
「確かに、それでピリオド…というのもありえるかも」
「本当は何だろう?わからないのもロマンチックだね」
「そう、だから…そのノートに書いてくれたら実現するって!」
「なんて他力本願なんだ…自分のノートに書きなよ!」
「なんかその『議事録』、魔力がありそうじゃん?」
茉莉也は、なぜか雪乃が業務上の気づきなどを記しているモレスキンのノート…通称「議事録」を神聖視してて、「書けば決定事項になる」と思い込んでいるようだ。そんなことはない、多分。もしそんなパワーがあったら、責任重大すぎて何も書けなくなってしまうだろう。
雪乃が茉莉也に会うのは1月に南花営業所を訪れてから4ヶ月ぶりだ。その間の1月後半から3月、シロヤマ・コーポレーション、そして賃貸業界全体は繁忙期を迎えた。本社で人事部付の雪乃も他の事務部、建物管理部などの助っ人として呼ばれたり、繁忙期ならではの忙しさを味わった。しかし茉莉也の話を聞く限り営業所の忙しさには及ばないだろう。特に妊娠中の森川さんが倒れてしまったと聞いた時は、胸を痛めた。
「倒れるまで、休むわけには行かなかったのかなあ…」
「あの時は、みんな大慌てだったけど、結果的に大丈夫で良かったよ。それから、営業所全体が、忙しくてもお互い無理しないように…って声を掛け合うようになったんだ」
しみじみと言う茉莉也の方を見た。4ヶ月ぶりに会う彼女は、白いブラウスにネイビーのジャケットを羽織っていた。最近、ますます大人びている気がする。以前の可愛らしさに加えて華やぎも加わり、色気すら感じるようになった。茉莉也が羽化して飛んでいってしまうような、ちょっとした寂しさが、雪乃の胸をかすめてしまう。
「これが、恋する乙女というやつかぁ…」
ため息をつく雪乃に、茉莉也がいたずらっぼく口角を上げた。
「…そういう雪乃さんの、その紙袋はどなたからのですか…?」
「えっ…?」
雪乃は鞄と共に荷物置きカゴの中に入っている白い紙袋を指されて驚いた。「京都辻利」という力強い筆文字で書いてある紙袋だ。
これは先ほど行われた社員総会の休憩時間に、茉莉也と同じ南花営業所の門倉さんから雪乃に手渡されたものだったからだ。門倉さんは少々俯き加減に、「ちょっとは優しいところを見せたくて」とだけ言って去ってしまった。その不意打ちに、雪乃はお礼を背中に投げかけることしかできなかった。そして、中を開けると雪乃の好物の抹茶ラスクだったことに、さらに驚いた。
「そういえば私の抹茶好きって、なんで情報流出してるのかと思ってた…!」
「フフン。実は、私でした…!」
茉莉也は、ピンクグレープフルーツサワーの入ったグラスを揺らして、何だか得意げだった。しかし、門倉さんの行動は、謎ばかりだ。
どうして門倉さんは、「優しいところを見せたかった」のか、そもそも門倉さんは優しくないのか。そんなことはない。
1月に南花営業所を訪れた時、本社の会議で決定した残業申請や、雪乃自身が提案したクリスマス休暇について、彼は批判的だった。ただ、それは雪乃が本音を求めていたことに対してのものだ。それに、彼の意見は真っ当で、嘘がなかった。だから、自分が提案したことに対する批判であっても、受けたいと思えたのだ。
この件を上杉部長に共有したところ、他の営業所でも残業申請について懐疑的な意見が出ていることが判明した。繁忙期ということもあり、残業申請はやがて廃止された。門倉さんの意見のおかげで会社が動いた。
だから、門倉さんが、わざわざそんなことをしてくれる理由がわからない。
しかし、抹茶ラスクは本格的な抹茶が使われていそうで期待できる。美味しくいただいて、今度会った時にでもお礼を言おう…と雪乃は思った。
雪乃は向こうの、真ん中のテーブルを見遣った。それぞれが唐揚げやフライドポテトをつつきながら、矢のようなスピードで短い言葉の応酬をして、その度に大きな笑いが起きる。まるで瞬発力を競うスポーツのような会話を見ながら、雪乃は尊敬の念を抱いてしまう。声も通らないし、頭の回転もあまり速くない雪乃には、ああいった当意即妙な返しはできないだろう。
ただ、彼らとの波長の違いは感じているものの、仲が悪いわけではない。
「社員総会でみんな集まるし、同期会しよ!」とラインで呼びかけたのは真ん中のテーブルの一人で、雪乃はすぐに参加表明をした。今は茉莉也と端っこのテーブルでのんびり話している。しかし、仮に茉莉也が欠席で、真ん中のテーブルにいたとしても…多少の居心地の悪さはあるが…まあ、過ごせないことはないだろう。それが、学生時代のクラスメイトと会社の同期との違いである。グループが違っても、業務中に同期から電話がかかってきたり、同期の名前を見つけたりすると、まるで遠い外国で日本人を見つけたような親近感を覚える。
(今日も、すごく嬉しかったもんなあ…)
社員総会では、最も売上を上げた個人賞としてのMVPと、営業所単位のMVTが表彰される。MVTは、なんと南花営業所だった。知っている面々が壇上に上がると自然と笑みがあふれてしまう。茉莉也の発案した物件共有会が売上にも、チームの活性化にもつながったという所長のコメントがあり、同期として誇らしい気持ちになった。
そして、MVPとして壇上に上がったのも、雪乃の知っている顔だった。
出須賀営業所の、仲介営業、星原直哉。
星原は今真ん中のテーブルで談笑している、雪乃たちの同期である。新卒1年目でMVPなんて、快挙中の快挙だと言われていた。雪乃は星原と話したことはなかったが、名前を見ただけで胸が高鳴った。同期の活躍はこんなにも嬉しいものだ。
「南花営業所のMVTは、雪乃のおかげだよねーって、話してたんだよ」
そんなことを茉莉也が言うので驚いてしまう。
「え…?なんで私が…?」
「だって、雪乃が来てから、営業所の雰囲気とか、私の仕事のやり方とか、全部変わったんだよ」
「でも…私、議事録とっただけで、何もしてないよ…?この繁忙期、頑張ったのは、茉莉也とか…営業所の皆さんだよ」
「言うと思ったよ。でも、私はそう思ってる」
「そんな…」
謙遜ではなく、たった1日訪れただけの営業所にそんなに貢献しているとは思えず、雪乃は必死で手を横に振った。むしろ雪乃の方が色々教えてもらったのだ。営業所の電話の多さ、森川さんから聞いたお昼ご飯の食べられなさ、時短勤務のノルマ、残業申請やクリスマス休暇に現場が思うこと…全てを雪乃一人が一度に解決することはできないが、上杉部長に情報共有をしながら少しずつ自分の仕事になっていってる。
茉莉也と、あの日の南花営業所の思い出を話していると、頭上からやわらかい声が降ってきた。
「この席、混ざってもいい?」
先ほどMVPとして表彰されていた星原直哉が、すっと顔を出してきたのだ。
「おー…さっきぶりだね、いいよ。座りなよ」と茉莉也が言う。同じくMVTとして表彰されていたので、壇上に上がる時のリハーサルなどで会ったのだろうと思われる。
星原をこんなに近くで見たことがなかった。大柄で少しふくよかだが、輪郭の薄さが存在感を和らげていた。鉛筆を思わせるような素朴な声で、先ほどまで真ん中のテーブルで会話を交わし合っていたようには思えない。
「ちょっと、静かな場所に行きたくてさ」
そう言って垂れ目を細めて微笑むと、同じくらいの涙袋ができた。
「そ…そう。MVPなのはすごいけど、確かにみんなの前だと緊張するかもね」
「私は雪乃の顔を見つけたりして楽しんでたけど」
雪乃と茉莉也の言葉に頷きながら、星原は尋ねた。
「真田さんってさ、人事だっけ?」
「うん…人事っていうより、人事部付…で、なんでも屋さんって感じだけど…」
「不思議な立ち位置だよねー。まあ、雪乃らしいっちゃらしいけど」
星原がさらに尋ねる。
「人事って…異動の権限とかあるの…?」
「異動の権限…?」
一瞬、雪乃には意味が捉えきれなかった。
「たとえば、僕が営業以外に行きたいって言ったら、それが通るの…?」
その言葉に、雪乃は息を呑んだ。
「星原くん…それを、望んでるの…?」
星原が小さく頷いた。
営業として輝かしい実績を残し、今日まさにMVPとして、社員全員の前で表彰された人、そんな人に似つかわしくない発言だ。
しかし、星原の表情をよく見ると、どこか物憂げで、心が定まっていないのが伝わった。
「私に、権限はないよ。でも…話を聞くことはできる」
「ありがとう……一言で言うと…営業としてどう頑張ればいいのか…分からなくなった」
(第二章第二話に続く)
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