【掌編小説】祭りの夜の軽さ
「そこで我々は何を選ぶべきであろうか、重さか、あるいは、軽さか」
文字列に胸の鼓動が早まった。夢中で物語を追いかけていると、後ろから「おいっ」という、少し掠れた声がした。
振り返ると、緑のエプロンをつけた女性が、右手にふわふわのホコリとりを持って、じっとこちらを見ていた。
「少年。もう閉店時間だぞ。早く帰りたまえ」
褐色肌で、どこかエキゾチックな顔立ちなのに、出てくる言葉がなんだか重々しい。
「あ…すみません」
物語から、いつもの場所に戻ってきたのに、どこか現実じゃないような不思議な気持ちだった。閉店間際の書店は外の暗さとのコントラストでやや眩しく、「蛍の光」のBGMに、「まもなく閉店時間となります…」というアナウンスが重なっていた。残っているのは、僕一人だ。本を閉じて、値段を見るために裏返すと、書店員はくしゃっとした笑みを浮かべた。
「あー…その本ね。面白いから。買った方がいいよ」
「ブックカバーはお掛けしますかー?」
レジ越しに立つ書店員の、とってつけた敬語に僕はプッと吹き出してしまった。彼女は「なんだよぅ」と、口を尖らせる。
「敬語使えるんだなあ、と思って」
「そりゃお客様だもの」
「ほら、敬語じゃなくなってるじゃないですか」
「いいの。閉店しても残ってる客は、もう客じゃない」
「ひどいなあ」
そう会話しているうちにも、彼女は手際良くブックカバーをかけて、袋に入れる。水色の爪がチラチラと光った。
「君、ここの人?」
「はい」
「じゃあ…今週末は、やっぱり夏祭り行く?」
「いえ…」
今週末、地元の夏祭りがあるのはもちろん知っていた。小さい頃はよく親に連れられてはしゃいでいたが、今は一緒に行く友達もいない。地元の友達は遠くへと進学していき、結局、声をかけられないまま、週末が近づいていた。
書店員が、またくしゃっと笑った。
「おいでよ。お姉さんが、焼きそば奢ってあげるから」
答える代わりに、「蛍の光」のBGMが、夜の書店を満たした。
*
薄暗い夏空に、幾つもの提灯がぼんやりと光っていた。
和太鼓や盆踊りの音響、人々の喧騒が耳に注ぎ込まれていく。
あたりには、色とりどりの浴衣姿の女性や紺色の甚平の男性、お面をつけてヨーヨーを持って走る子供…それぞれの方法ではしゃいでいた。
僕はその中の何者にもなれず、ただ祭りという映像を眺めているような心持ちで、出店に沿って歩いていた。あの書店員が祭りに誘ってくれたけど、なぜ、焼きそばなのだろう。
「おーい!少年、こっちこっち!」
掠れた声のする方を振り返ると、例の書店員が、「やきそば」と書かれた看板の下にいた。黒いTシャツを着て頭にバンダナを巻いて、鉄板の前にいて、銀色のヘラを持って手を振っている。
自分のちょっとした期待を大いに恥じた。あのちょっと変わった書店員は、僕のことを夏祭りに誘ってくれて、浴衣姿で待ってくれているのかと、少し思ってしまっていた。しかし…僕に声をかけたのも、焼きそばの集客のためだったのだ。
(そりゃそうだよな…初めて会った僕にそんなこと言うわけない)
「本当に来てくれたんだ、少年」
書店員が、カラカラと笑う。隣に立つ女性が「知り合い?」と怪訝そうに聞く。
「この前、バイト先の本屋に来てた子なんだ」
「えー…本屋のお客さんまで呼ぶなんて…信じられない」
「いいじゃん。少しでも来てくれた方がいいし」
書店員が、隣を向いて笑った。横顔を見たのは初めてだった。
彼女は僕に向き直った。
「あー…少年、一人?」
「はい」
「一人で来てくれたんだ…ちょっと悪いし、お姉さん色々回ってあげるよ」
「…いいですよ、焼きそば買いに来ただけです」
「そう言わずにさ、寂しいじゃん」
そして、隣に片手で謝る仕草をした「ごめん、ちょっとの間だけさ、代わってくんない?」隣の女性が、「うん、ナナミちゃんそろそろ休みなよ」と微笑んだ。
*
左手にもつ焼きそばが温かい。パックの上にピンクの紅生姜が散りばめられている。
「どこか回りたいところある?」
書店員…ナナミが尋ねる。
金魚掬い、スーパーボール掬い、射的、わたあめ、くじ引き…どこも家族連れで賑わっているが、今の自分の気が惹かれるところがない。
「子供じゃないですし…」
「お姉さんからみたら、子供に見えるけどなあ」
ナナミがからかい口調になる。
「僕だって、もう…高三ですし」
そう言うと、彼女は目を丸くした。
「そうなんだ?受験生?ごめんね…勉強もあるのに」
ナナミがあまり慌ててるので、僕は逆に申し訳なくなってしまった。
「あーいえいえ、ちょっと気分転換で、大丈夫です」
「そうういえば、この前も遅くまで本屋にいたし、閉店間際までいるの、目をつけてるんだから…もしかして余裕?」
「まあ……はい」
本当は、志望校を決めたものの、あまり勉強する気が起きなかった。とりあえず国語力と言いながら、趣味の読書に逃げてしまっていた。ナナミがため息をつく。
「すごいなあ…もう、あたしなんてさ、必死で勉強して…ちなみに、どの大学?」
「…慶峰です」
「え、いまそこ通ってる!今!何学部志望?」
ナナミが急に目を輝かせた。
「…文学部」
「そうなの?あたし、文学部の2年。フランス文学を専攻してるんだ。この前読んでたの、ミラン・クンデラ?『存在の耐えられない軽さ』。あれねー私、今授業で原文読んでるんだ。話としては面白いけど…原文で読むの、すんごい難しいねー調べるのに休日全部潰れちゃってさ。ったくバイトもあるのに春学期は週末遊びにも行けなかったよ、どうしてくれるんだって」
そう言いながらも、ナナミは楽しげだった。僕はフランス語のことはちっともわからない。英語はなんとか受験レベルについていけてるものの、全く知らない言語で、読書をするなんて…考えもつかない。
「少年…なんて呼んだらいい?」
「ハヤトです」
「ハヤトくん、受かるといいな。あ、余裕なんだっけ。あたしと違って」
ナナミはフフフ、と笑った。心臓の、上の方が鳴った。
提灯が並んでいるところを通っている。相変わらずの喧騒の中で、ナナミのハスキーボイスは、骨に響いた。ナナミは女性としては背が高いんだろう。僕の目線のあたりに彼女の頭があった。
もし、浴衣を着ていたら、どんな色の浴衣なんだろう…きっと白色に水玉など…そう、一瞬思ってしまった自分を恥じた。
気づくと、さまざまな方向に散っていた人たちが、自然と一つの方向へと歩き始めていた。
「あー…花火、始まっちゃうなあーちょっと、喋りすぎちゃった」
ナナミが苦笑して、続けた。
「戻らなくて大丈夫なんですか」
「ま、いいか。今年は。」
ナナミは「穴場スポット知ってるんだ」と言って先をずんずん歩く。ナナミは自分が知っている以上に、地元のことを知っていた。ナナミの言った「今年は」という言葉が、寂しさになって僕を掠めた。
「穴場スポット」と呼んだ芝生に、少しだけ離れて座る。ヒュウという音がして、パッと満開の花火が上がった。芝生の下から歓声が上がる。次から次へと、色とりどりの花火が咲いては散っていった。遅れてくる花火のドーンという音が僕の胸に響いた。
花火を見るふりをして、時々、隣を見た。ナナミはずっと黙って、花火を見上げていた。彼女の瞳には、たくさんの花火が映っているだろうな、と思うと胸がしめつけられた。その瞳を覗き込みたいと、思ってしまった。
「ナナミぃ、そこにいたのか」
低い男性の声が聞こえて、ナナミが後ろを振り向いた。
「あーシュウちゃん、どうしたの」
「どうしたのって…探してたんだぞ」
えー…と言いながら、ナナミはヘラヘラ笑っていた。
僕は徐にシュウちゃんと呼ばれた男性を振り返って見た。浅黒い肌、いつも笑っているような人懐っこそうな目元、揺れる銀色のアクセサリー…自分のクラスでリーダー格の男子を思い出した。話したことはないけど、男子にも女子にも好かれては、お調子者の…あいつが大学生になったら、こんな風なんだろうか。そう思うと、彼とふざけては談笑するナナミが、急に遠くなった。
あくまでも彼女は、親切心…過剰とも言える親切心から回ってくれているに過ぎない。勝手に勘違いして、一人で来た僕を不憫に思ったのだろう。本当は…一緒にいて楽しいのは、こういう男の方だ。「今年は」花火を見たけれど、来年以降は…考えれば、考えるほど胸がしめつけられた。
「あ、この子。ハヤトくん。うちの大学受けるんだって」
急に、ナナミが僕のことを指した。
「ひょー頭ええのう、地元なにげにそういう奴ばっかだよな」
「シュウちゃんの方が地頭いいと思うよ」
「やめやめ、地頭なんていいことねえよ。あ、ぼちぼち店、片付けるから」
「うーん、そのうち参戦する」
「さぼんなよ、じゃあな」
シュウちゃんがくるりと背を向けて出店の方へ歩いて行った。打ち上げ花火ももう終わりらしい。ぞろぞろと人々が立ち上がり、色々な方向へ歩いていくのが暗がりの中でも見えた。
ナナミも伸びをして「うーん、片付け行かなきゃなあ…」と言う。
「すみません、付き合わせちゃって…」
「えーごめんね、だって一人で来るとは…でも、受験生だしもう帰らないとね、家どっち?」
「内坂3丁目です」
「結構遠いじゃーん、バス乗ってきたの?」
「はい…」
ナナミは少し出店の方を見遣って、僕に向き直った。
「ここのバス停まで送ってあげる」
*
祭りの喧騒がだんだん遠くなる。ナナミは「あんまり混んでない近道」があると言って、僕たちは人々の流れから外れた。
「地元、長いんですか?なんか色々知ってるんですね」
「えー?生まれた時からずっとここ。なんなら駅ができる前からいるよ」
「古参勢ですね」
そう言うと、ナナミが軽く笑った。
「そう、どんどん開発されて、しょうがないけどなんか、寂しいよね」
提灯の灯りも、月もなくて、空にはまばらに星が広がっていた。駅前の開発が進んでいるとはいえ、まだここが田舎であることを証明しているようだ。それでも、ナナミが「近道」と呼んだ道は、街灯もなく顔がほとんど見えなかった。
「まだまだ田舎ですねえ」
「そんな、ずっと田舎でいいよ」
「でも、そう言っても人は増えてくるし」
「…あれ、クンデラどこまで読んだ?」
「まだ全然です。ニーチェのところで止まってます」
「あれねーあれ乗り越えたらかわいいところだから」
「難しかったですか?原文も」
「全然わかんなくて1文で1時間ぐらいかかったやつもある」
暗闇は沈黙を生んでしまう。ぽつぽつと話題を変えては、またしぼんでいった。
「ハヤトくん、いるー?」
暗がりから、ナナミの声がした。
頭に何かが当たって「いたっ」と思わず声が出た。
ナナミがかざした手が当たってしまったのだ。
「ごめん…大丈夫?いるかなって思ってさ」
「そんな急に消えないですよ」
「だってハヤトくんって、すぐ消えちゃいそうじゃん」
ナナミのその言葉に、自分の鬱屈していた思いがカチっと音を立てるのに気づいた。
「…どうせ、存在薄いですよ、あなたのお友達に比べたら」
「へ?そう言う意味で言ってないって」
「ナナミさん、僕のこと本当は馬鹿にしてるでしょ」
「してないよ」
「一人で来て、可哀想って思って…いらないんですよ、そういう…上からの施しとか!」
完全なる八つ当たりだ、ナナミさんを困らせてしまう…そう思っても、言葉は次から次へと出てきてしまう。祭りの喧騒が、遠くで微かに聞こえている。暗闇で、ナナミの表情は、全く見えなかった。
「そっかー…余計なことしちゃった、ごめんね」
「…謝んないでください」
「でも…馬鹿にしてるっていうのは、聞き捨てならないな」
「それは、僕が言い過ぎました」
「本好きを馬鹿にするわけないじゃん。我書店員ぞ?」
全くナナミの表情は見えないのに、彼女は笑ってることがわかった。
「ね…手を繋いでてくれない?」
「え…」
「ほんとは、暗いとこ、ちょっとだけこわい」
自分の、わざとらしいため息が震える。
「じゃあ…帰るときどうするんですか?」
「そうだった、帰りはなんとかする」
「暗くならないとこまで戻りましょう」
「それじゃあ意味ないよ」
「意味なくない。ナナミさんが怖くないようにしてあげたい」
ナナミの手を暗がりの中で探して、握りしめる。あのブックカバーをかけていた手は、なめらかで、ひんやりしていた。
「…そんなに強く握らなくていい」
「これが僕。僕の重さです」
「ハヤトくん」
「僕…ナナミさんと同じ大学に、余裕で受かりますから。来年の夏祭り、浴衣着てください」
ナナミが小さく「えー…」と言うのが聞こえた。
「…あたし地黒だし、似合わないと思うよ?」
「似合わなくてもいい。僕が見たい」
「そこは似合うって言えよぉ」
(了)
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ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』はこちら
お題は「蛍の光、夏祭り、バス停」でした❣️
前回の参加作品はこちら。年上女性に恋しがちです💦
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