10秒だけ、名人になった噺
それまでは、会場全体が江戸時代にタイムスリップしていた。
噺家が、高座の上でよく通る声を響かせていたのだ。
落語に舞台装置はほとんどない。
扇子と手拭いといったシンプルなものだ。
そのわずかな小道具と、口調、間、所作。
それだけで、会場全体に魔法がかけられる。
観客の全てが一つの大きな耳となり、噺家の声に耳を傾けていた。
その時だ。
江戸時代にあってはならない音が、どこからか聞こえてきた。
ピロピロピロ、ピロピロピロ……
観客の一人が、携帯電話の電源を切り忘れていたらしい。
そんな時に限って、着信音は鳴ってしまうものだ。
会場前方で、携帯電話の持ち主が焦っているのが見えた。
静かな会場に緊張が走り、一体だった空気は乱れ始めた。しかも、その電子音は、次第に大きくなる。
噺家も、さすがに気づくだろう。
集中力を乱されるのか、注意するのか……
どう判断するのかが気になって、見ている方が集中できない。
丁度、「噺」の中では、ある男が小判を谷底に投げて遊んでいた。ひょうひょうと投げる様が楽しく、盛り上がる場面の一つだ。
そんな中の、電子音。
気づけば皆、噺家がどんな対応をするのか、見守っているようだった。
すると、噺家は、下方に耳を澄ませる仕草をした。
そして、小判を投げる男の口調のまま、こう言った。
「おや、谷底から奇妙な音が……妖だろうか…これは音が消えるまで 小判は投げられないぞ……!!」
会場の緊張が一度に解けた。 大きな笑い、そして拍手に包まれた。
その様子を、後方から見ていた私は、体中が熱くなり、涙がこぼれそうだった。
「名人だ……」
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たね明かしをすると、上述の「噺家」はプロの落語家ではない。母校の、当時大学4年生だった、私の先輩だ。
私は大学時代、4年間落語研究会に所属していて、実際に高座を用意して落語を行っていた。卒業前には、「名人会」という行事があり、大学の中で最も広いホールを借りて口演を行う。
この「携帯電話事件」は、その「名人会」の中での話だ。
学生落語の4年生。プロの落語家から見たら「名人」だなんて笑われてしまいそうだが、それ込みでわざと「名人会」と名打っているのだ。
当時、私は1年生で、まもなく学生落語2年目となる時期だった。
女子大生が落語をするという状況が珍しいのだろう、老人ホームなどで口演をした時は、それなりに笑っていただいていた。扇子や手拭いの使い方などにも慣れてくる。そんな時期だ。
だが、高座の上での、先輩のあの機転。
卒業前に、私はここまで至れるとは思えなかった。
私は、台本に書かれた以外のことを、本番で行うことが苦手だ。もし、あんなことが起きたら、しばらく固まってしまうに違いない。あの状況を、笑いに変えられるなんて、到底無理だろう。
そもそも、私はプロの落語家になりたくてやってるわけではない。
ただ、大勢のお客さんが、自分の言葉で一度に笑ってくれる瞬間は嬉しくて、やみつきになる。
もっと喜ばせたい。こんな言葉で笑ってくれるだろうか。笑顔で帰ってもらいたい。そんなことを想像しながら落語の練習をするのが、楽しかった。
私は引き続き、落語、そして落語研究会の仲間とともに、大学生活を送った。先輩のような「名人」でありたい、と思いながら。
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落語研究会の活動は忘れられない思い出ばかりだ。長期休みには、全国の介護施設や、老人ホームを回って落語を口演した。授業のない時間は部室にこもって、大喜利や謎かけをして遊んだ。文化祭で4日間の「寄席」をするために、一つのネタを半年近くかけて練り上げた。文化祭の準備、片付け、お客さんの呼び込み。10年以上経っても、鮮明に思い出せる。
ただ、私が落語研究会の活動に夢中になることに、両親、特に父はあまりいい顔をしなかった。
今なら、その気持ちもわかる。大学の学費も出したのに、その娘は何をするかと思えば、落語だ。
最初は面白がっていたものの、次第に落語研究会の活動に熱中して帰りも遅くなる私に、小言が増えていった。
社会人を経験し、親になった今ならば父の気持ちも少しは理解できる。
自分はすごく恵まれていたんだと、自省することばかりだ。
当時は、そんな父にたびたび反発した。せっかく活動を終え、充実した気持ちで帰ってきたのに、家に着いたら怒られて、気持ちが台無しになった。
しかし、父は、私が出る落語を見に行かないかと言えばそうではない。
忙しくない時は、時間を合わせて見にきていた。
それが不思議だった。私が落語をするのが嫌ならば、見に来てくれなくてもいいのに。
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家族との葛藤をやり過ごしながら、私も4年生になり、最後の文化祭を終えた。いよいよ、私たちが「名人会」を開く番である。
大学で一番大きい、500席ほどの広いホールを押さえて、何ヶ月か前から準備を始める。名人会に出る4年生は13人おり、オープニング、エンディング映像、パンフレットやビラなども含め、自分たちで用意した。この4年間の集大成である。
4年間かけて、私の落語もはじめた頃よりは身についてきた。お気に入りのネタも生まれたし、落語本編の前に「マクラ」というフリートークをするのだが、このマクラで笑ってくれる話を考えることもできるようになっていた。
しかし、完全に「上手い」わけではない。同期と比べると、どうしても粗が目立ってしまう。上手い人は、所作が自然で安定感があって、見ていて安心できる。笑いは心の余裕からしか生まれないから、上手さというのは重要な要素だ。私の場合、根が不器用なのか、色々と粗い。落語そのものじゃなくて、勢いで笑ってもらっている、そんな落語を続けていた。
そして、やっぱり舞台の上でも、普段も、トラブルに弱い。いつもと違うことが起こると、慌ててしまう。次の年には社会人になるとは思えない慌てぶりに、きっと見ている人は呆れていただろう。同期のしっかり者たちに支えられた4年間だったと思う。
そんな私は、名人会で、最初の出順になった。
トップバッター。重要な役割だ。わざわざ学生落語を見に足を運んでくれるお客さんばかりなので、基本は優しく笑ってくださる方が多いだろう。それでも、最初に場を温められるかどうかで、その後の演者のやりやすさも変わってくる。少なくとも失敗はできないのだ。
私は大勢の人の前に立っても、基本緊張しないタイプだ。それでも、落語がはじまる前は、心臓が引きつるぐらい高鳴った。
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「一席のお付き合いを、お願いいたします。」
頭を下げると、観客全員の拍手がホールに反響した。
高座の上は、私一人。ナレーターも、登場人物も、私一人。この「一席のお付き合い」の間は、会場の空気の全責任を負うのだ。
拍手が収まって、会場全体がしんとしたのを合図に、私は「噺」を始めた。
落語本編に入るまでのフリートーク、マクラでは、「可愛い女子は何をしても結局可愛くなってしまって許せない」という内容の話をした。少々嫉妬じみたテイストで、自分の本音も混じっている。会場は、まずまず笑ってくれているようだった。
そして、マクラから徐々に話の方向を本編に寄せていく。マクラの重要なポイントの一つだ。最初から時代も状況も違う江戸時代の話をしてしまうと、観客はついていけない場合がある。フリートークの共感により観客を「迎えにいく」ことで、一緒に落語の世界に飛び込めるのだ。
観客がついてきてくれるのを実感しながら、私は本編を話し始めた。演目の名前は、「悋気の火の玉」だ。「悋気」とは「嫉妬」。そう、私が嫉妬じみたテーマのマクラを選んでいたのは、この話につなげるためだったのだ。
登場人物は、旦那、妻、愛人。妻と愛人が旦那をめぐって嫉妬しあって、二人とも死んでしまうのだが、死後は二人とも火の玉となり、旦那の煙草の火種をめぐって争う噺だ。文章であらすじを書いていると、とんでもない話に見えてしまうが、実際は様々な噺家によって面白く、時に妻と愛人がチャーミングに語られている。妻と愛人、二人の女性の演じ分けが楽しくて、このネタを選んだ。
場面は、順調に進んでいき、旦那の浮気を妻に気づかれはじめる場面となった。一つの盛り上がりなので、ナレーションとして観客の様子を見ながら話していく。私は観客と一体になっているのを感じた。
その時だ。
空気に、異変が起こった。
ピロピロピロ、ピロピロピロ……
観客の一人が、携帯電話を切り忘れていたらしい。
そんな時に限って、着信音は鳴ってしまうものだ。
会場前方で、携帯電話の持ち主が焦っているのが見えた。
私は完全に慌ててしまった。元々トラブルには弱い。散々、「開演前には携帯電話の電源をお切りください」ってアナウンスしたのに。今更責めたところでしょうがない。それまで夢中で聞いてくれていた観客が、心配そうな表情に変わるのがわかった。
どうしよう。
こんな時、高座の上は、孤独だ。
私は、焦っている携帯電話の持ち主を観察した。
携帯電話の持ち主は。
父だった。
父が焦る姿に、なんだか可笑しくなった。
おいおい、何やってんだよ。携帯電話、切れって言ったじゃん。私の時でよかったよ。そう言いたくなった。
その気持ちのまま、私は観客に向き直って、言った。
「ああ、大丈夫です。今のね、私の父なんです」
一瞬空いて、大爆笑だった。
今までの笑いは何だったのか、っていうぐらいの。
笑いの波が収まるまで、話し始めるのをしばらく待ったほどだ。
その間、実はどうしてそんなに笑っているのかわからずに、少し不思議な気分でいた。ただ、ありのままを述べただけなのに。
それからのことは、あまりよく覚えていない。順調に話し終えた気はするが、その時ほどの笑いではなかった。トップバッターとしては場を温められたのではないだろうか。
控室に戻ると、同期が先ほどの対応のことを、口々にほめてくれた。
「グッショブだったな」「よかったよ」
嬉しかったけど、落語の内容ではなく、携帯電話の対応ばかりほめられることが、やはり不思議でならなかった。
そして、同期の全ての出順が終わり、エントランスに並んで観客の皆さんを見送った。笑い過ぎて心地よい疲れを感じているその表情に、心が温かくなった。
やがて、両親もホールから出てきた。
私を見かけると、父は照れくさそうに、「ああ、さっきはすみませんでした。」と言った。母は「もう本当にごめんねえ、こんな時に限って、ゴルフのお誘いだって。」と、苦笑いしていた。
それを見ていた後輩が、驚いていた。
「え?あれって…本当に親御さんだったんですか?」
私は何のことか、理解できなかった。
「本当に……って、そうだけど……」
「いやあ、そうなんですね! あの時ほんと、先輩すごいって思いましたよ。名人でしたね! まさか、本当に親御さんだったとは……」
後輩が目をキラキラさせている。
その時、どうしてあんなに笑っていたのか、やっと理由がわかった。
みんな、私が機転を効かせて、事態を切り抜けたのだと思っていた。
携帯電話の持ち主が誰であれ、「父だ」と言うことが、一つの対処法なのだ。私はそれを知らなかった。
私は、かつて同じようなことがあった先輩のことを思い出した。
先輩も、私と同じように一瞬は焦っただろう。
それでも、冷静に登場人物のセリフとして見事に切り抜けた。
私は、先輩とは程遠い。これは偶然の産物である。買い被りすぎだ。
それでも、「名人会」後のアンケートには、こんなコメントが複数書かれていた。
「携帯電話が鳴ったときの対処法が、まさに名人でした。」
まあ、みんなそう思ってくれてるのであれば、そういうことにしておこう。
携帯電話が鳴った、ほんの10秒間だけ。
私は「名人」になったのだった。
読んでいただきありがとうございました。
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