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花火大会に行きたかった

 土曜日の遅く起きた朝だった。私は家族で1番の寝坊助で、外は既に明るく、家に夫と娘の気配はなかった。水泳の時間か。
 布団の中でスマートフォンの画面をスクロールしていると、今日、近くで花火大会があることを知る。
 上京してから15年も経つのに、未だ東京の花火大会には行ったことがない。
 しばらくまどろんでから、顔を洗い掃除機掛けをしていたら、玄関から2人が帰って来る音がした。
 玄関とリビングを隔てるガラス窓付きのドアから、なぜかポムポムプリンの巨大なビニール袋が視界に入る。帰りがけにコンビニの一番くじでも引いたのだろう。
 娘は小さな眉間に深い皺を寄せ、「ううぅ」と唸っている。
「良いのが当たらなかっただポコ」
 不機嫌のまあるい塊が今にも泣き出しそう。
 昼食はそうめんを茹でた。麺をすすりながら、私は何気なさを装って切り出した。
「今夜、花火大会があるんだって。みんなで行こう」
「行かない」
「そんなこと言わずにさ。あなた一人をお留守番させるわけにはいかないし、三人で行こうよ」
「行かないって言ってんじゃん!」
 どうやら思っていた以上に虫の居所が悪いらしい。
 食べ終えると珍しく自室にドアを閉めてこもっていた。中から、鉛筆の擦れる音がかすかに聞こえる。宿題をしているらしかった。
 せっかく水泳のテストに合格したのに、ご褒美のくじ引きがしょぼかったこと。休日なのに、まだ宿題が終わっていないこと。色々なタイミングが重なって、彼女の中のご機嫌のバケツがひっくり返ってしまったのだろう。
 今夜の花火は無理そうだなと思った。
 そして、それは仕方のないことだとも思った。

「俺とあの子は家にいるからさ。ポンさん、一人で行って来なよ」
 流し台で洗い物をしていた夫が、なんの気無しにそう言った。
「なんだよそれ」
 私の声は想定よりもトゲトゲしかったのだと思う。夫が驚いたようにこちらを見る。
「だって、あの子が行かないって言うんだからしょうがないじゃないか。一人残していくっていうのかよ」
 そうじゃない、と言いかけて、私は口を閉ざした。
 私が怒っているのは、花火に行けないことではない。でもそれをわざわざ一から言葉にして、理由を添えて説明しなければ分かってもらえないのだろうか。感情に形を与えて相手に手渡す作業そのものが、ひどく虚しく、しんどく思われて、特に何も返さなかった。
 その後、夫はリビングのソファに寝転び寝息を立て始めた。休みの日はいつも食後に昼寝をする男なのだ。娘は変わらず、部屋に閉じこもっている。
 リビングに居続けるのが息苦しくなり、私は一人、家を出た。花火に行くつもりで、お化粧も服も、いつもより少しだけ丁寧に仕込んでいた。だけれど行き先はただの近所。どこか落ち着ける場所で、冷たいコーヒーを飲みながら、本を読んだり日記を書いたりしたかった。
 最近見つけた、雰囲気とコスパの良い個人経営のカフェがある。手作りプリンが絶品なのだが、今日は勢いで出て来てしまったから贅沢は自重してコーヒーだけにしとこう。
 向かって歩き出したが、5月らしからぬ容赦ない日差しが体力を奪っていく。カフェまであと400メートル。その距離に挫折し、道すがらにあったロイヤルホストの重いドアを押し込んだ。ファミレスでもコーヒーは飲める。

 冷房の効いた店内でメニューを開き、私は小さく息を呑む。
 ドリンクバー、税込792円。
 カフェだったらプリンもコーヒーも頼めた。それに私は、お代わり自由と言われたところで、せいぜい二杯が限界の人間だ。
 どうしても頭が原価率を計算してしまい、ドリンクバーを注文する気になれなかった。かといって、パフェなんかはアイスで身体を冷やしすぎてしまう気がする。
 迷いに迷った末、私はなぜかポークロースステーキ(税込1,408円)を注文していた。
 なんで、あともう少し頑張って歩かなかったんだろう。国産豚肉をナイフで切りながら、自嘲気味に思う。けれど、ロイヤルホストは高いだけあって美味しいのであった。
 スマートフォンの画面が光る。娘からのメールだった。絵文字がいくつも連打されている。
『お父さんはまだねんねしてる?』
『起きたよ。花火いくの?』
 さらに絵文字の連打。
 娘の機嫌は、いつの間にか直っているようだった。
 ポークステーキを完食し、日記を書いたりSNSを見たりして過ごした。
 お会計をしながら、コーヒーとプリンが食べれた金額の倍も使っているじゃないかと思った。
 帰り道は不思議と風が強く吹いていて、気温ほど暑くはなく、肌に心地よかった。行きとはルートを変え、巨大な団地の中の左右生垣に囲まれた道を歩く。日傘を差し、人影の少ない緑の影をのんびりと辿りながら、私はゆっくりと家を目指した。

 帰宅し、眠かったのでベッドに横になった。暑熱純化がこの季節の速度に追いついておらず軽く熱中症にかかってしまったらしい。
 15分くらいウトウトしていたら静かにドアが開いた。
「水の買い出し行くけど、一緒にいく?」
 のぞき込んできた夫に「疲れたから一人で行ってきて」と力なく返す。ついでに、夕飯を作る元気が出そうにないことも伝えた。
 気づくと時計の針は7時を過ぎていた。
 冷凍庫に冷凍の焼き餃子が入っていて、お米も水に浸されてあった。少しだけ身体が動くようになったので、私は手早くお味噌汁を作り、冷蔵庫にあった残り物の副菜を皿に盛って並べた。
 食卓に置いたホットプレートが熱を帯び始めたので餃子を並べる。
 夫が何気なくテレビのリモコンを操作し、チャンネルを花火大会の中継に合わせた。
 テレビで見たってつまんないやい。
 私は心のなかで、少しだけ悪態をつく。
 娘の好きなミセスの曲が流れ、それに合わせて画面の中で大輪の火花が夜空に弾けた。
 中継画面から数秒遅れてドン……!という音が網戸にしていた窓を通して微かに届いてきた。
 その奇妙なズレが、今日という日のすれ違いに似ていて、これはこれで、風流ってやつなのかもしれない。
 行きたくないって言っていたけれど、実際に連れて行ったら、あの子はきっと楽しんだだろうな。
 餃子は二袋買ってあったけれど、私がロイヤルホストで奇行に走ったがためお腹がいっぱいだったこともあり、一袋しか焼かなかった。
「外でおやつ食べてきたの?」
 娘に聞かれ、「うん」とだけ答える。
 食後、夫と私は並んでソファに座り、ボーッとしながら画面の中で弾ける光を観て、でもやっぱりすぐに飽きて、スマホをいじっていた。
「花火、見てないならチャンネル変えるよ?」
 夫が訊く。
「いいよ。テレビで見てもしょうがないし」
 瞬間、せっかく少しずつ和らいでいた空気を、再び乱した自覚はあった。
 昼間、言いたくなかったこと。苦し紛れに口から溢れ出してしまう。
「……花火が観たかったんじゃないんだよ。三人で、仲良く花火が見たかったんだよ。見られないことを拗ねてたんじゃなくて、『一人で行ってきたら?』って言われたことが、すごく嫌だった」
 夫は黙って聞いている。私は膝を抱え、さらに続けた。
「それにね、わざわざこうして言葉にして伝えないと分かってくれないの? って思ったら、すごく悲しくなっちゃったんだよ」
「……そんなの、言われなきゃわからないよ」
 夫は不愉快そうな表情をしている。
 私はやっぱりあんまり伝わらなかったかと思いながらもここまで来たのならと続ける。
「例えばさ、二人でディズニーランドに行こうって約束してたとするじゃない。そしたら片方が『体調崩したから行けなくなった。一人で楽しんできて』って言ったら、言われた方はどう思う? 花火大会っていうのは、私にとってそういう位置づけというか。いや、まあ、一人で見たら見たで、それなりに楽しいかもしれないけどさ」
「それは……悪かったね」
 夫はそう言ったけれど、その顔には苦みと不満が隠しきれずに滲んでいた。なんとも言えない、居心地の悪い表情。
 一生懸命に言葉を尽くして、それでも届かなかったとき、一番深く傷つく。だから言いたくなかったし、長年一緒にいるんだからそれくらいという甘えもあった。
 正解は分からない。伝わったのかもわからない。けれど、夫はソファから立ち上がることはなかった。私の隣に座り続けている。
 私は夫があぐらをかいている膝の上に、そっと頭を乗せて横たわった。
 手のひらが、髪をゆっくりと撫でた。視界がにじんで、2、3粒涙がこぼれ落ちた。しばらくの間、そのままの姿勢でいた。
 その後ばれないように服で涙を拭って、お風呂に入るべく膝枕から顔を起こした。
 リビングを出る間際、テレビの画面を見つめる二人に向かって、私は声をかける。
「東京の花火は、まだ他にもあるからさ。次のやつは一緒に行こうね」

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