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 命日だね、ちょっと会いたくなるもんだね

数日前が母の命日でした。
こんな寒い時期だったんだな、と今更ながら思いました。
その日、お昼過ぎに東京の弟から連絡が入り、とりあえず私一人、スーツケースに家族全員の喪服を詰めてその日のうちに東京に向かいました。

特養に入っていたので、死亡が確認されるともう一刻も早く出てください、という感じになります。
夕方には葬儀会社の安置室に移されていて、駅から10数分のところまで、でっかいスーツケースを転がして行きました。
都心からは少し離れたところでしたが、夕方だったからか通行人がやたら多くて、とても歩きにくかったのを妙に覚えています。

母はきれいな顔で眠っていました。

母は若い頃から結構あからさまに「死」を恐れていて、私が父と「死んだらどうなる」的な話をしていると「そんな話、やめて!」とよく怒られたものでした。
祖母(母の母)が亡くなった80歳を迎えた時には、認知症の診断も受けた後だったこともあり、かなりナーバスになっていました。
そんな様子を知っていたので、母の穏やかな様子に少しホッとしたものでした。
生きていれば本能的に「死」を恐れてしまうけれど、そんなに怖がらなくてもいいんだな、とも思いました。

まだコロナ禍の続いていた時だったので、親戚には事後報告。
家族だけで葬儀を済ませました。
友だちの多い社交的な人だった事を思うと寂しい葬儀で、あちらに行って父に文句を言っていただろうなと思ったものです。

母に対しては、私だけでなく弟も、私の息子も、わだかまりを持っていました。
私と弟は実の子供として育てられる中でいろいろあったわけですが、私の息子-母にとっては孫-に対しても「気に入らない事ばかり」の人で、息子はずいぶん傷つけられました。
そのため、葬儀で泣く人はいませんでした、ただ一人を除いては。

私の娘だけは、母のお気に入りでした。
容姿や学歴、就職先などが母の気に入るものだった、ということです。
親としてみれば、良い所も良くないところもある人並みの娘ですが、離れて暮らしていた母にとっては“人に対して自慢できるアイコンがある”ことで十分、気持ちが満たされていたのでしょう。
娘に対してだけは、いつも優しいおばあちゃん、でした。
その娘だけは、母の死に涙してくれました。

その娘の涙で、私自身が救われたような気持ちになりました。
母が死に対しては、ホッとした、というのが一番正直な気持ちではありました。
でも、誰も泣く人がいない、ということを、自業自得だとまでは思えなかったのです。

だって、やっぱり一人の人間として、一生懸命に生きてきたことには違いはないわけですから。
子ども時代を戦争に奪われて、貧乏な父と結婚して二人三脚で商売を頑張って生活して、子どもたちを大学まで行かせて。
その子どもたちは思ったようには育たなかった。
近所に住んで欲しかった娘は結婚して遠くに行ってしまい、息子は結婚もせず店も継がず実家からも出て行った。
孫が出来てみれば、一人はひ弱な難病持ち。
母にしてみれば、思うようにいかない事ばっかりだったわけで。
しかも、夫はこれから老後を楽しもうという時にいなくなってしまった。
そして最後の10年は認知症で、不安の中で年を重ねていったわけで。

そんな人生を「頑張ったね、お疲れ様」と労わってくれる人がいないのは、悲しく、寂しい人生だったよね、と初めて母に対して情が動きました。

父が亡くなってお店も手離して一人になった母を、気遣ってくれる人は何人もいました。
でも、母は人から優しくされることをすごく嫌いました。
様子伺いの電話や、お出かけのお誘いに対して、「人から憐れまれるなんてまっぴら」と言って怒っていました。
「可哀想に」と思われることは母にとってプライドが許さない事だったのだと思います。

でも私は最近、すごく素直に「母は可哀想な人だったな」と思うのです。
本当は寂しかったはずです。
どうしてもっと素直になれなかったの?
なにがどうなったら、どうしたら、一人の老後をもっと楽に楽しく暮らせたのだろうね、おかあさん、と、最近はよくそんな風に思うのです。

認知症が進んでいよいよ一人暮らしが無理となり、グループホームに入ることになった時、母は私に言いました。
「私はあんたに、“認知症にされた”と思っているから。それだけは忘れないで」と。
それが、頭がはっきりしている母から言われた最後の言葉でした。

そんなわけないじゃん、なんでそんなこと言ったのよ。
そんなこと言わなければ、言われなければ、私だってもう少し優しくなれたのにさ。

私があっちに逝ったら、母を捕まえて言ってやりたいことなのでした。


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