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教科書が教えない歴史ー占守島の戦い

 8月15日は北海道にとっては終戦の日ではありません。それ以降も北海道はソ連の攻撃にさらされていました。そして昭和20年8月17日深夜にいきなりソ連軍が千島列島の最北端、占守島(しゅむしゅとう)に襲いかかってきました。

占守島の位置

 占守島の戦いは、昭和20年8月17日23時頃日本の第5方面軍が守る占守島にソ連軍が奇襲上陸することから始まります。これは終戦に乗じて火事場泥棒のように日本の領土を奪わんと国境の島に攻め入ってきたソ連軍を日本軍が迎え撃った防衛戦です。

 日本側は上陸してきたのはソ連軍と断定できず国籍不明としていたが、次第にソ連軍と認識、ソ連軍が占守島に上陸したとの報を受け、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、第91師団に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令。

樋口季一郎中将

 この占守島の戦いの中心となったのが陸軍戦車第11連隊の兵士たちであり、その連隊長は「戦車隊の神様」とも言われた少将・池田末男(当時は大佐)でした。

その時に、池田大佐が問うたのが、
「諸子は赤穂浪士のように恥を忍び後世に仇を報ずるか、白虎隊となって民族の防波堤となるか」
という言葉であり、兵士たちが白虎隊を選んで猛烈な戦闘が行われました。ソ連側の死者は3000人を超え(日本側は600人から800人とも)、その損害の大きさのため、ソ連による北海道上陸は阻止されました。

池田末男大佐

 もし、この戦いがなければ、北海道は北方領土どころか、北海道の半分をソ連に占領されていたことでしょう。しかし、この戦いの占守島の捕虜はシベリア抑留でも過酷な零下50度の地獄のマガダンに送られたことも絶対に忘れてはなりません。

占守島の捕虜は最も過酷な運命をたどりました

 ちなみに、池田大佐が率いていた11連隊は十一が「士」になることから、「士魂部隊」と言われ、今も士魂部隊の名称を現在の恵庭にある第11戦車隊(陸上自衛隊第11旅団隷下の機甲科(戦車)部隊)も敬意をもって引き継いでいます。

恵庭にある第11戦車隊

【東千歳駐屯地では戦車隊の展示があり、占守島の戦いの展示もされている】

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