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縄文時代にもだらしないやつがいてほしい、雑土偶の物語【東博】

ーー博物館で時々見る雑な土偶はどんな人が作ったのか?


あたりが暗くなってきた。暗くなるというのは、つまり、今日が終わるということであり、今日が終わるというのは、すなわち、明日の昼に行われる例の儀式に必要な俺の土偶二体が、まだこの世に誕生していないという事実が、この暗晦とともに俺の肩にずしりとのしかかってくる。しかし俺は今日何をしていたかと言えば、起きて、川辺で意味もなく尻を地面にこすりつけ、そこにずっと前から生えている赤黒い木の実を、なぜ食べようと思ったか、いつもは食べる気が起きないのに、今日は食べてみようという気が起こった、案の如く、世界がぐにゃりと曲がったと思ったら、即座に猛烈な眠気に襲われたので、いつもの木陰で眠りこけて、意識が戻った今、俺はここで小便をしている。

なぜ小便をしているのか。そもそも、なぜ俺はいつも、肝心な局面で小便をしているのか、一昨日の狩猟の時も、ここらで一番獰猛な猪をついに沈めんとした時だ、俺は小便、みすみす英雄になる機会を譲ってやった。
俺以外の連中はどうだ。朝起きたらきっかり土偶を完成させていたのか。一人くらい誰か、完成させていない怠け者、いや反逆者はいないか。社会の歯車に吸収されるものか、といきり立つ勇敢者は俺だけだということも、甚だ疑問。あいつ。昨日はまたあいつが現れた。あの、木の実やら骨やらを身体にこれでもかと巻き付けた、猥雑の極北みたいなシャーマンが、ふんぞり返って俺たちの間を歩き、作れ、と言うと、みんな、はい、と言って作り始める、正気か。俺はそんな気のふれた集団に加入した覚えはない。

だから、そんな血迷ったかわいそうな奴らが一見、何もしなかったと誤認してしまうかもしれない、俺のかけがえのない今日の時間は、もちろん怠慢ではない、断固たる意思表示。歴史の歩みを、ほんの一歩、横にずらしてやろうとしているのだ。革命と呼んでいい。そんな俺が闊歩している姿をもろともせず、俺の背丈の半分にも満たないガキまでが、鼻水を垂らしながら馬鹿正直に土をこねているようになったことは、不甲斐ないことだが、もはや知ったことではない。
そもそも毎日土偶を作って、何の意味があるのか、これで天候が変わるのか、豊穣が訪れるのか、それは冗談じゃ済まない。つまり、この頭上一面に広がる空よりもでかくて得体の知れない何かを、無条件に信じるってことで、いやいかん、そんな現象に対して首を縦に振るほど、俺の頭は軽くない。

しかし、問題は理屈ではなく、鹿肉。
明日の昼までに土偶が完成していないと、鹿肉が分配されない可能性がかなり現実的に浮上してくる。それはまずい。先週もダメだった。先週は腹を下していた、下していたのだ。あれは不可抗力だろう。なのに皆、やんややんや言いやがる。もう終わったことだ。過去。文明以前の文明。
いやしかし、作らなければならない。あのおかしな集団とは縁を切ってみて、自分自身の新たなる可能性のために、眼前に広がる大海原に足を進めてみてもいいものだが、この社会の暗部に気づいていない、限られた清純なものを悪き循環に取り残すことは、俺の信条に反する。全くもって快い行為ではない。

作らなければ。しかし、あの、最近流行りの、目だけがやたらとでかい、おかしな土偶を作る気は、毛頭ない。アーモンドみたいな巨大な目をくっつけて、はい完成みたいな意思ゼロ造形。あれを作るくらいなら、俺は鹿肉を諦める、いや、諦めないが、そんなんでは俺の何者にも穢すことのできない、その崇高な魂が、音を立てて破裂するだろう。
俺は違う。俺は百年後、この土地で一番でかい岩に名前を刻まれる男だであり、刻まれないとしても、何千、何万年、俺の存在は未来永劫、誰も忘れ去ることのできない存在なのだ。そんな俺の手から、どこかで見たような、ありふれた造形が生まれるはずがない。そうだ、今しがた、創造のための積極的な散歩をしていたところだったのだ。革新的なスタイルとは何か、それを体に問いながら歩き、問いたところ、肉身からはピリッとした尿意が返ってきたので、こうして小便をしている。これこそがインスピレーション、只今、天才による発明の瞬間。

とりあえず目に見えたものを、子孫繁栄だか、鎮魂だか、精霊だかにこじつければいい、それで明日を乗り切ることができる。土偶の定義なんて、誰からも聞いたことがないのだから、無いものに対して糾弾される謂れはない、俺が最新トレンドだと言えばいい、実際にもそうなのだから。意識の高そうな連中は、そういうのに弱い。
偉大な才能というのは、将来必ず、土偶を作ってくれ、と皆に懇願される時が来るから、今は、センスを保ちつつ、締め切りに間に合わせる。とにかくやる。セミプロからプロになるための訓練。
今ここで!
目に見えたものを、土でそのまま形作り、目と鼻と口をつけ、これは土偶です、と言えばいいのだ。

勝手雑土偶物語 其一 

そうしてできた土偶がこちらです。↓

呪術や祭りのために作られたと言われる縄文時代の人形、土偶。考古学的にも芸術的にもロマンあふれるかっこいい存在で個人的にはハニワより惹かれちゃう。今年は昨年末に東京国立近代美術館で開催された企画展、「ハニワと土偶の近代」展がとっても楽しかったので、土偶と埴輪についてよく考えたり見たりしていたのですが、いまだに謎すぎすることがある。それがこの疑問、時々見る簡易すぎる土偶は誰が作ったのか、用途があったのか?ということ。

◯土偶といえば

土偶と言われて最初に言われて多くの人が思いつくのは遮光器土偶ではないでしょうか。異星人が作ったのか!?と思っちゃうくらいの不思議かつイカしているデザイン。他にも木兎土偶とかハートとかヴィーナスとか、かっこいい土偶はいっぱいある。岡本太郎の「縄文論」で言われるように、文明を手にする前の根源的パワーが詰め込まれていて、原始を考えるならこれ以上はない優れた芸術作品。

土偶は現代に発見される際の保存状況から儀式で壊されるために作られたのでは?と言る。あんなかっこいいよくできたものを壊してしまうなんて!もったいない気もするけれど、そもそも芸術という概念すら共通してないんだろうし、ただただ祈りのために作っただけなのだとしたらそういう意識も生まれないのかもしれない。「生かしたデザインだね!」と思うこともなかったんだろうか。

◯雑土偶とは

そういった事実や芸術的なパワーを考えた時、気になってしまうのがまさに雑土偶なのです。何のために存在したの?と思ってしまうような雑さ。雑土偶がピンとこない方のために、なすにきびはこんな感じの土偶を指しています。↓

チマっとしている。遮光器土偶、木菟土偶ならぬ雑土偶という括りを勝手につけたいと思う。
この土偶は日本ではなく韓国のものにはなるけれど、東京国立博物館に見ることができるれっきとした博物品。ちょーーシンプルな胴体に4本足と
少し大きい頭。これは雑!と言っていいでしょう。

さらに先ほどのこんなやつ↓

うーん雑。他の土偶のように手足をつく人型で考えているのだとしたら手のない雑さ。少し陰茎のようにも見え、雑どころか下ネタ土偶と言ってしまいたいくらい。こちらは埼玉県の鉢形城歴史館で見たものになりますが、地域の資料館でこういった雑土偶は死ぬほど目にするのではないでしょうか。

◯未熟な大人が作った?

縄文時代の平均寿命は13〜15歳ほどと言われている。何でわかるんだよという疑問もありつつ、乳幼児死亡率がとんでもなく高いことを考えても40歳ぐらいで長寿と言われる厳しい時代。うまく大人になることができても、知的レベルが極端に低い人がいたりしたのか?と思ったりする。

なのでこういう雑土偶の存在は、遮光器土偶など優れたものを作ることができたのは数少ない人間で他の人は簡単な土偶を作るくらいしかやることがなかったのか?と考えることもできる。つまり

遮光器土偶=優れていて作者も脳が発達している。
雑土偶  =雑なので作者は脳も未発達の状態である。

といういわゆるIQの基準を持ち込むような考え方をしてしまっているのだけれど、縄文という生物史と文明史の狭間の存在に対して、勝手に文明の基準で考えてしまうのはナンセンスというか全く正しいものではないのかもしれない。しかし、遮光器土偶をすぐ作れと言われても難しいけれど、雑土偶ならすぐにでも作れるよ!と思うのは事実。そもそもそんな厳しい縄文時代に生き残って成長した大人なんて、
めちゃくちゃ賢そう、、、。

ただ遮光器土偶なんてものが作れるのなら、同じ時代の壁画(日本には少ないけれど)がもっとかっこいい様式になっていても不思議じゃ無いと思うけどなー。

◯子供が作った?

そうなると当然学習段階である子供が作ったのかな?と思うけれど、この説はよくあるそう。大人が儀式のために作っているのを模倣して泥遊びの要領で色々作ってみたものの残りが雑土偶。

それかさっきも言ったように土偶は儀式で壊される前提で作られるものだったので、効率重視のために雑に作っておいたのかもしれない。「もうどうせ壊すのに綺麗に作る必要なくね?儀式とかなんかめんどいしー。」というだらけた感覚が、2000年前の縄文人にすらあるものだったならば、それはそれですごく親近感を持てるので嬉しい。

「偶」と言っても人型以外、動物とか植物の形もある土偶だけれど、代表的な中でも遮光器土偶や木菟土偶、ヴィーナスとかは手がないとしても人型になっている。立派な土偶が人型になっていることを考えると、やっぱり儀式の中心として作られたものではないんだろうか。

◯精霊の姿

土偶は土や火、木の精霊と人の狭間をわかりやすく表したなんて話も聞く。遮光器土偶の目がゴーグルみたいな形で特徴的なのも視力から霊力を感じさせるデザインなのでは?という考えもあるし、最後に壊して土に戻すのも、土という神聖な場所を大事にする縄文的感覚があるらしい。

とすると、さっきの亀ではない方、変な雑土偶も子供が作った線を消すと、なんだか意味があるのでは?と思えてくる。子孫繁栄は土偶に込められた意味として多いと思うので、これも土からいでた男性器の精霊として真面目に制作した可能性もあるのではないだろうか、、、。

縄文社会の自由

なすにきび的な感覚で言うと、やっぱり雑土偶はちゃんとした意味があったり、子供が作ったわけでもなく、最初の物語のような、どうしようもない大人がテキトーに作ったものであってほしい気持ちがある。縄文”社会”というと考古学的には間違っていそうだけれど、縄文の生活から抜け出すような自由があったのなら面白い!

おわり

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先日銀座駅に設置された大友克洋のパブリック・アート
「Procession Spin」
縄文から未来までの美術と文化のうねり

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なすにきび...勝手美術 偏った美術愛ですが、面白いなと思っていただけたら、いいねフォローなどよろしくお願いします。大変はしゃぎます。