書評の功罪。。。
最近活字を読みたいと思えなくて、新聞ですら見出しとテレビ欄しか見なくて、書評ページに辿りつくことさえ稀なのだけれど、書評の選書にも何か一定のルールがあるだろうし、選者さんの好みや気遣いも反映されるし、読者の好みや相性もあるし、なんでも鵜呑みにするのは良くないな、と思っている。
FBやTwitter(X?)と呼ばれるSNSにも、長所と短所があって、確かに一部の緊急事態の時(東日本大震災とか)には役に立ったかもしれない。この道は安全、ここなら無料配布してる、一時的に雨露凌げるなど、その頃はデマよりは、真摯に善意から、良かれと思って出来る人が出来ることをしていたのではないか。
翻ってそれから十三年以上経ったいまはどうか。SNSは善意の芽を伸ばしているのか。例えばニュージーランドが国として青少年の一部世代に使用制限を課したように、言語能力や善悪の判断が未熟な世代には悪影響のほうが大きい、としてこのような態度を取る国が出て来た。ヨーロッパやアメリカ文化圏から離れた独自の文化的バックグランドがある地理的要因もあるだろう、日本のように某国の犬ではないから自国にとっての良し悪しを議論出来るのだろう。もちろんN国でも反対する人もいるのだろうけれど。
なにが言いたいかというと『庭の話』(講談社\宇野常寛)だ。
この本、乃至著者が「庭」というテーマをクローズアップしたことには共感する、しかし、著者は「中動態」、という概念を誤解してるように思った。
たかだかFBやSNSのなかに中動態などはない。それはどこかの営利目的の個人か集団が作り出したただのプログラムに過ぎない。毎回変わる画面表示、気に入ったボタンを押した人同士のあなたこれ好きでしょ、という感じに流されてくるタイムライン、せまい世界に囲い込もう囲い込もうとする意図が見え見えだ。いいね、はそんなにいいか.タイパはいいのかもしれない、ボタン一つポチっと押すだけ、でもそこに忖度はないか。絶対にないか。情報の真偽や優劣を数で図ろうとするその発想が嫌いだ。
んHKのラジオニュースが以前、アクセス数の多かったニュースランキングを夕方の番組内で発表していたが、これはサイテーだと思った。アクセス数が多ければ意味のあるニュースなのか。もうわたし達は自分にとってなにが意味があって何が意味がないのかさえわからなくなっているのか。考えることさえ、文章を書くことさえ、AIさまに頼って、それでウケがいいとか、効率がいいとかもてはやしあって、そんな本なんかだれが読みたいか。
わたしたちの孤独はまだその程度なのだ。だれかにいいね👍されたり、スキ、の承認の数を競って自分は1人ではないと慰めあうような。メンソレータムを塗っておけば直る程度のかすり傷。
中動態は、むしろ「落語」の中にあった。先日聞いたカフェ落語で、いつも腹を立てているクマさんだかハッツアンだか(まるで私)が、ご隠居のところに行って「じゃあお前さん、いきなり雨が降ってきて着物を濡らされたら、だれに腹をたてる(責任を要求する)つもりかね」。
「空き家になってる家の、瓦が風で飛んできて、おめえさんにぶつかったら、そいつは誰の責任かのう」。。。。
柳が風になびく如く、天災と思ってやり過ごせば、腹も立つまい。
こういう言葉だったかどうかもうろ覚えだけど、なんかちょっとピッ、と刺されるような刺激があった。天災なのだ。先妻ではなく。
SNSは天災などではない。明らかにどこかの誰かさんたちによる人災。そういうメディアに準拠して投稿する自分も自分だけど。
わたしはこれ以上先の世界を生きていく自信は全くない。希望は、お金では買えない。自暴自棄になりそうな、12月後半の始まりを、落語のことばがなんとか踏み止ませてくれている。
