見出し画像

本の話。

ずっと本が読めない頭だった。
2024年元旦の地震発生以来、けっこう平気な顔で一年半を過ごしてきた。
自分が被災者だという自覚もあまりなかった。水が来ない三ヶ月近くは、義母が実娘宅に避難していたこともあり、夫婦二人の気ままなマイペース暮らしはむしろ楽しかった(ような気もする)。発災後一年三ヶ月の間に書いたblogとFB投稿とNoteの投稿などで辻褄あわせに創作も交えたかもしれない日記もどきをZINE扱いで自費出版もした。
もちろんそれとも並行して、細々と古本屋も続け、買取にも行き、交換会にも行ける時は参加してきた。

今年5月に発行したZINE風日記、「すずらへん」。

それがこの夏(2025年の夏)で停滞し、進めなくなり、側から見たら中弛み、怠惰、停滞モードになった。本はマンガ以外読みたい思えなくなった。仕事上、値段をつけたり、書誌データの確認くらいはした。でも内容にあまり興味を持てなくなった。誘われた催事やイベント、ネット販売用もなんとか続けていたのだが、10月頃から何かおかしいように思うことが増えた。

娘の転職と引越し、息子がマイホームを購入し、秋口から海外出張で家を空けた(約五週間)。別に自分は何もしていないけれど、もうこの家族は崩壊することが予感される気がした。それは、ザムザが毒虫に変身するかのごとく、ある日ひっそりと始まった。毒虫と化した精神は部屋を片付ける必要性を感じない。変身した自分を隠すことが第一義だからだ。誘われたり希望したイベントには出た、でももう蓬々の程で。あげあげ、そげそげ、これこれ、バケバケ、である。

ともかく、一週間ほど現場(自宅)を離れ、一人静かに過ごし、信頼できる何人かの先輩に会って話し、事情を説明するうちに少し本を読んでみようかな、という気になってきた。というのも、訪問した一人の先輩は自分と家族で小売の書店を営んでいる方だからである。オットのもとの職場の先輩だ。「すずらへん」も置いてもらっていた。翌日会う別の先輩が、「すずらへん、5冊持ってきてくださいね」とメールが来て、でも自分は手持ちゼロで家を出てきて、さてどうする、と考えたときに、Yさんの本屋になら有るかもしれない、と思ったのだ。電話で確認したら在庫あるという。詰まり売れ残りだ。それを返品してもらうという形で、三法一両得の結果になった。基本、お世話になった新刊本屋ではなにか本を買うことにしている。全部は買えないが、琴線に触れる本があったのだ。井戸川射子の詩集とか。「被災学」とか。経費で落とすことにして購入する。その辺から、また本を読んでみようかな、と思えるようになった。

そしてある晩、あまり早く金沢のみなし仮設扱いの家に帰りたくないわたしの足はビーンズに向かった(金沢市内の大きめの本屋)。これですらけっこう久しぶりである。ビーンズでは月刊漫画誌に紐がつけられていて、立ち読みができなくなっていたから足が遠のいていた。新書買ってもハズレが多いし、ジャストミートする本に出会える気がしなかった。
しかしその時は探している本があった。あるとしたら二階奥の人文哲学思想のコーナー。数日前の新聞の書評欄で紹介されていた。
平積みにはないようだった、だいたいいつ出た本かもわからない。図書館で探す、リクエストするという方法もあった、でも買って読みたいと思った。
そしたら。なんと。棚に一冊、あったのである。マジ? でもけっこう高いじゃん? どうしよう。迷っているうちに、いざとなったらクレジット、という最終兵器で、買ってしまった。宇野常寛氏の『庭の話』(講談社)。『中動態の世界』がイチオシ本であった人がこのオビ文を読んだら、買うしかないでしょう。買います、書いますとも。

というわけで、11月が終わるまえに、本格敵な冬が北陸地方襲う前に、なんとか低め安定でやっとここまで文章が書けるようになった。
ブログも、Noteもほったらかしであった。ネットショップなど尚更。一番大事なことはなんなのだろう。そんなこと考えさせられる、精神的に追い詰められいた二カ月弱であった。


いいなと思ったら応援しよう!