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ランスとエイミー2_空への旅立ち

第一章ある依頼


第一章 ある依頼


夜が明けきる前に、すべては始まっていた。

三週間前に庭へ降りてきた小さな円盤。灰色の宇宙人。そして、宿泊代として置いていかれた、見たこともない文字の刻まれたブレスレット――ランス・ブレナンはまだ、それが自分たちをどこへ連れていくのか知らない。

ただし、それを知るより先に。

 「……まだ暗いじゃないですか!」

ランス・ブレナンの朝は、たいてい文鳥に叩き起こされる。

透明な文鳥が耳元でぴぴぴと鳴く。姿は見えるのに、目覚まし時計より容赦がない。時刻は毎朝ばらばらで、今朝はなんと五時十二分だった。

文鳥は気にしない。ランスの寝ぐせだらけの髪の上にちょこんと座って、鳴きやまない。

 「わかった、わかりましたから……!」

諦めて起き上がると、図書室の窓から薄い朝焼けが差し込んでいた。机の上には昨夜読みかけの論文と――ブレスレット。

銀色の金属に刻まれた未知の文字が、朝の光を受けてかすかに光っている。

ランスは毎晩、この文字を解読しようとしていた。古代ヘブライ文字に似ている。でも、違う。楔形文字の要素もある。でも、どの既知の文字体系にも完全には一致しない。

 「あと少しで、解読できるはずなんだが……!」

ガッシャアアアン!

 「……おはようございます、ランス殿」

兜が転がってきた。ランスは拾い上げて返した。もう慣れた動作だった。

 「おはようございます、クランク卿。朝の巡回ですか?」

台所では、ポリーが朝食の準備をしていた。

 「今日のトーストは、大丈夫かしらねえ?」

エイミーが台所を覗き込んだ。寝起きの髪がぼさぼさで、パジャマの裾を踏んでいる。

 「大丈夫、大丈夫! 今日は魔法使ってないから!」

 「昨日は使ったのね?」

 「昨日はほんのちょっとだけ! バターの伸びをよくする魔法をかけたら、バターが自分でパンの上を滑り始めちゃって――」

 「それ、全然大丈夫じゃないでしょ!」

 「結果的にはきれいに塗れたから、大丈夫なの!」

エイミーは笑って、テーブルについた。

この三週間で、エイミーの生活には新しいことが一つ増えていた。

魔法だ。

ポリーに教わって、ほんの少しだけ魔法が使えるようになった。といっても、花を咲かせる程度の小さな魔法。庭の花壇で、つぼみに手をかざすと、ぽん、と花が開く。それだけ。でもエイミーにとっては、大発見だった。

 「ポリー、今日も庭で練習していい?」

 「いいわよ! でもヒマワリにはかけないでね! 前に三メートルになっちゃったんだから!」

 「あれ、ポリーがやったんじゃん!」

 「……そうだったわね」

執事が紅茶を運んできた。完璧な所作。銀のトレイ、白磁のカップ、湯気の立ち方まで計算されている。ただし――トレイもカップも執事の手も、全部少し透けている。

 「おはようございます、エイミーお嬢様。本日の紅茶はアッサムでございます」

 「ありがとう、執事さん! 今日のお客さんは?」

 「本日チェックアウトが三名、チェックインが五名でございます。ノルウェーからバイキングの幽霊が二体、ブラジルからサンバの幽霊が一体、それからペンギンの幽霊が二羽――」

 「ペンギン、まだいたの!?」

 「三十七羽のうち、三十五羽はお帰りになりました。残り二羽が、どうしても帰りたくないと」

 「なんでまた?」

 「ポリーの料理が、たいそうお気に召したそうです」

エイミーは紅茶を一口飲んだ。完璧な味。大叔母ドロシーが教えた味。

――おばさま、今日も賑やかだよ!

午前中、エイミーは庭にいた。

バラ園が、ついに完成したのだ!

三週間かけて、館の東側の荒れ地を整備した。土を入れ替え、苗を植え、支柱を立て、水をやった。花屋時代の知識と、ポリーに教わった魔法を少しだけ使って。

赤、白、ピンク、黄色。四十本のバラが、朝の光の中で咲いている。

エイミーは新しいつぼみの前にしゃがんだ。手をかざす。目を閉じる。ポリーが教えてくれた通り、花の「咲きたい気持ち」に寄り添うように――。

ぽん。

つぼみが開いた。淡いピンクのバラ。花びらが朝露を弾いて光る。

 「わあ、きれい……!」

 「お見事でございます、お嬢様」

振り返ると、執事が立っていた。手に銀のトレイ。トレイの上にカップが二つ。

 「ランス様にもお持ちしようと思いましたが、図書室に籠もっておいでで。『あと五分』とおっしゃいました」

 「三時間は出てこないやつだ、それ」

 「左様でございます」

エイミーは笑った。

透明猫のミーシャが、バラの根元で丸くなっている。透明だけど、花びらが一枚、ミーシャの背中の上に乗っている。花びらだけが宙に浮いているように見える。

エドワードがバラ園の上空をふわふわ漂っている。花の匂いを嗅いでいるのか、ただ浮いているだけなのか、区別がつかない。

穏やかな朝だった。

でも、こういう朝は――だいたい長く続かない。

午後二時、玄関の呼び鈴が鳴った。

この呼び鈴は、第一巻の冒険以来、よく鳴るようになった。たいていは幽霊の宿泊客だ。でも今日は、違った。

執事が扉を開けた。

外に立っていたのは、老夫婦だった。生きている人間の。

男性は七十代半ばに見えた。白髪を短く刈り込み、ツイードのジャケットを着ている。背筋がまっすぐで、目が穏やか。慌てた様子がまったくない。隣の女性は同じくらいの年齢で、パールのイヤリングをつけ、カシミアのストールを羽織っている。上品で、優しそうな顔立ち。

 「ごめんください」と男性が言った。落ち着いた声だった。「ブレナンさんの事務所は、こちらでよろしいでしょうか」

執事は一瞬だけ固まった。生きている人間の来客は、エイミーとランス以来だ。

 「左様でございます。どちら様でいらっしゃいますか」

 「ウィリアム・ハートと申します。こちらは妻のエリザベスです」

エリザベスが微笑んだ。「突然お邪魔して申し訳ありません。お電話したのですが、繋がらなくて」

 「ランスさん、電話出ないんですよ、いつも!」とエイミーが玄関に飛び出してきた。「いらっしゃいませ! 中にどうぞ!」

老夫婦を大広間に案内した。

執事がいつも通り紅茶を運んできた。銀のトレイ、白磁のカップ。完璧な所作――ただし、トレイもカップも宙に浮いている。執事の手は透けていて、生きている人間には見えない。

ウィリアムの目の前で、紅茶のカップがふわりと浮かび上がり、テーブルの上にそっと着地した。

エリザベスが目を見開いた。

 「まあ……!」

ウィリアムは、カップが宙に浮いた過程を見ていたはずだが、表情を変えなかった。カップを手に取り、一口飲んだ。

 「美味しい紅茶ですね」

 「あの、今、このカップ……宙に浮いたような……?」エリザベスはまだカップを見つめている。

 「手品の一種です」

ランスが図書室から出てきた。髪はくしゃくしゃ、シャツの袖はまくり上げたまま、手にはルーペを持っている。

 「この館は古い仕掛けが多くて。ワイヤーとか、磁石とか、そういう類のものです」

 「ワイヤーには、見えませんでしたが」とウィリアムが穏やかに言った。

 「か、かなり高性能なワイヤーなんです」

エイミーは笑いをこらえた。ランスの嘘は、いつだって下手すぎる。

ウィリアムはそれ以上追及しなかった。紅茶をもう一口飲んで、本題に入った。

 「ブレナンさん。実は、調査をお願いしたいものがあるのです」

ウィリアムは鞄から、布に包まれた小さな箱を取り出した。箱を開けると、中に古い金属の円盤が入っていた。手のひらほどの大きさ。表面に細かい模様が刻まれている。

ランスの目つきが、変わった。ルーペを当てる手が、わずかに震えている。

 「これは……どこで手に入れたんですか?」

 「亡くなった兄の遺品なんです」とウィリアムが言った。「兄は考古学者でした。四十年前、中東で発掘調査をしていて、これを見つけたそうです。ただ、何なのかわからないまま、亡くなりまして」

エリザベスが付け加えた。「兄――義兄ですけれど、晩年にこう言っていたんです。『これは、地球のものじゃない』と」

ランスはルーペから目を離した。

 「地球のものじゃない……?」

 「ええ。変なことを言うと思われるでしょうけど――」

ランスは金属の円盤を光に透かした。表面の模様を指でなぞる。

心臓が、跳ねた。

この模様。この文字。

ブレスレットに刻まれた文字と、同じだ!

 「エイミーさん!」

 「はい!?」

 「ブレスレットを、持ってきてください!」

エイミーが図書室からブレスレットを持ってきた。ランスは円盤とブレスレットを並べた。

同じ文字。同じ金属の質感。同じ、かすかな温もり。

 「ウィリアムさん」とランスが言った。声が少し上ずっている。「この調査、お引き受けします」

ウィリアムは穏やかに頷いた。「よろしくお願いします」

エリザベスが微笑んだ。「お兄様も、喜びますわ」

老夫婦が帰った後、エイミーはランスの顔を見た。

あの目だ。考古学者の目。冒険者の目。護符を追いかけていたときと同じ、熱い目。

 「ランスさん、何かわかったの!?」

 「わかったというか――繋がったんです」

ランスは円盤とブレスレットを並べて、指で文字をなぞった。

 「この三週間、ブレスレットの文字を解読しようとしていました。古代ヘブライ文字に似ているけど、違う。楔形文字の要素もあるけど、一致しない。でも今、ウィリアムさんの円盤を見て――」

ランスは深呼吸した。

 「二つを並べると、文字が補完し合うんです。ブレスレットだけでは読めなかった部分が、円盤の文字と組み合わせると意味を成す。まるで、一つのメッセージを二つに分けて隠したみたいに」

 「何て書いてあるの!?」

 「まだ全部は読めません。でも――一つだけ、確かなことがあります」

ランスはブレスレットを手に取った。

 「このブレスレットには、瞬間移動の技術が記されています」

エイミーは三秒ほど、黙った。

 「……瞬間移動……?」

 「うまく説明できるか、自信ないんですけど」ランスは頭をかいた。「量子力学に、離れた場所にある二つの粒子が瞬時に影響し合う現象があるんです。アインシュタインですら気味悪がった。この文字は、たぶんそれを――もっと大きなもの、たとえば人間くらいのサイズに応用するやり方を書いてあるんだと思います」

 「つまり!?」エイミーが先を促す。

 「つまり、このブレスレットを使えば、ある場所から別の場所へ、一瞬で移動できる可能性があるんです」

エイミーの目が、輝いた。

 「どこへでも!?」

 「いえ、制限があります。文字を読む限り、『知っている場所』にしか移動できない。行ったことがある場所、もしくは正確な座標を知っている場所」

 「じゃあ、宇宙には?」

 「座標がわかれば――理論上は、ですが」

エイミーはブレスレットを見つめた。宇宙人が置いていった、銀色の細いブレスレット。

 「ランスさん」

 「はい?」

 「ウィリアムさんの円盤の謎を解いたら――その答えは、宇宙にあるかもしれないね!」

ランスはため息をついた。でも、口元は笑っていた。

 「そうかもしれませんね」

エドワードがランスの頭の上でぐるぐる回っていた。興奮しているらしい。

その夜、ランスは図書室で調査を続けていた。

円盤の文字とブレスレットの文字を照合し、一つ一つ意味を解き明かしていく。古代ヘブライ語の辞書、シュメール語の文法書、量子力学の教科書が机の上に散乱している。

深夜二時。

ランスの手が、止まった。

円盤の裏面に、もう一つの文字列があった。表面の文字とは違う配列。これは――座標だ。

天文学の座標系に変換すると――。

それは、月。

地球の月を指している。

 「ウィリアムさんのお兄さんが言っていた。『地球のものじゃない』と」

ランスは椅子の背にもたれた。天井を見上げた。

天井の隅で、普通の幽霊が一体、ふわふわ浮いている。エドワードではない。四体のうちの一体が、静かにランスを見下ろしていた。

 「……月に、何かがあるんだ」

幽霊はゆらゆら揺れた。

ランスは立ち上がって、窓を開けた。

ロンドンの夜空に、月が浮かんでいた。雲の切れ間から、白い光が差し込んでいる。

あの月に、答えがある。

ブレスレットがあれば、行ける。

ランスは月を見上げたまま、小さく笑った。

 「エイミーさんに言ったら――『行こう!』って、秒で答えるんだろうな」

幽霊がゆらゆら揺れた。肯定のつもりらしい。

翌朝、ランスはエイミーに言った。

 「月に、行きませんか?」

エイミーは、即答した。

 「行こう!」

ランスは笑った。わかっていた。

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