【アマノ文筆クラブ】ショートショート『七転び、やっと起き』
佐藤健二は、またしても「転んで」いた。 といっても、もちろん物理的な話ではない。渾身の企画書がボツになり、昇進の道が遠のいたのだ。
「俺はやっぱり、ダメ人間なんだろうか……」
ベンチに座り込み、どん底の気分で呟く。思えばこれまでの人生、受験、就職、恋愛。ことあるごとに彼は「転んで」きた。その都度、泥臭く立ち上がってはきたものの、そもそも優秀な人間ならこんなところでつまずかないだろうし、転んだとしてもそんな素振りも見せずに、楽々と再起するはずだ。
自分のように、ただ傷ついて、またトボトボと歩き出すだけでは、何の進歩もないのではないか。そんな暗い思考に沈んでいた時、ふと視界の端に、歩道で大の字になっている男が映った。
「大丈夫ですか?」
健二は思わず声をかけた。男はまるでアスファルトと一体化するかのように微動だにしない。
「……フン。同情するなら、金をくれ」
男は地面に頬をつけたまま、目玉だけを動かして健二を睨んだ。
「は……? いや、助けようとしただけなんですけど。怪我とか、何かあったんですか?」
「怪我? いや、さっきの段差で綺麗に転んだだけだ。だから俺は今、ビジネスチャンスの真っ最中なんだよ」
健二は呆気にとられた。
「何なんですか、それ。早く立ちなさいよ」
「断る! 俺は『転んでもタダでは起きない』主義なんだ」
男は誇らしげに、アスファルトにへばりついたまま続けた。
「いいか? 転んだからには、タダで起き上がるなんて愚の骨頂だ。この俺が立ち上がるという『労働』に対して、誰かが対価を支払うまで、俺は一歩も動かん」
健二は言葉を失った。 この男、「転んでもただでは起きない」ということわざを「失敗から教訓を得る」という意味ではなく、「物理的に転んだ状態で、誰かから金を巻き上げるまで動かない」という、救いようのない勘違いで解釈している。
「……いや、それ、ただの居座りですよ。ことわざの意味、全然違いますから」
「うるさい! 教訓なんて腹の足しにもならん。俺はこうして倒れていることで、通行人の善意を搾り取る生き方を選んだんだ。さあ、俺を起こしたければ千円だ」
健二は差し出そうとした手を、スッとポケットに深く突っ込んだ。 さっきまで自分が悩んでいた「俺はダメ人間だ」という悩み。しかし、目の前の光景は、それを遥かに超越していた。
(……自分がダメ人間だとは思っていたけど。世の中、下には下がいるもんだな)
「勝手にしてください。僕は先を急ぐので」
健二が背を向けて歩き出すと、背後から慌てたような声が飛んできた。
「おい! 待てよ! 行くのか!? 俺を、このままにしておくのか?」
「……はい」
「待てって! 俺を……俺を起こさないのか!? 今なら特別に五百円でいいぞ! おい、無視するな!」
男の必死な叫びを無視して、健二は歩調を早めた。 振り返ると、男はまだ地面に張り付き、通り過ぎる人々に「金を出せば起きてやる」と毒づいている。その姿は、進歩どころか、転んだ場所に自ら根を張っているかのようだった。
「タダでは起きない、か」
健二は、自分の履き古した靴を見つめる。 自分は今まで、転ぶたびに失敗を糧に出来たわけではない。ただ痛みを堪え、泥を払い、元の場所へと這い上がってきただけだ。
けれど、あんな風に「利益」に執着して地面に留まるよりは、何も得られなくても自分の足で立ち、前へ進む方が、マシではないか。
「俺は、タダで起きればいいんだ」
健二はふっと笑った。 人生という道で何度転んでも、そのたびに「無料」で、自分の力だけで立ち上がる。それこそが、一番贅沢で、一番強気な生き方なのかもしれない。
健二は背筋を伸ばし、雑踏の中へ消えていった。背後からはまだ、「おーい! 百円! 百円でいいから!」という男の虚しい声が、遠く響いていた。
「……ふふっ」
自然と笑みがこぼれた。 少しだけ自信がついた。自分はまだ、自分の足で歩いている。それだけで、あの男よりは何百倍も「優秀」ではないか。
「よし、帰って企画書、書き直すか」
健二は背筋を伸ばし、雑踏の中へ消えていった。
了
こちらの企画に参加させていただきました。ありがとうございました。
